「英領インド」、「仏領インドシナ」と言う名前は覚えている。高校で習った記憶がある。
で、「蘭領東インド」ってのはきっと習ったんだろうけど覚えてない。
とにかく怠け者で、まともに勉強(というか、「学び問う」という学問の王道を歩いてこなかった)しなかったものだから、とにかく試験の前の丸暗記。
それで「英領インド」というのが、当時、東西のパキスタンもひっくるめた地域だ、と知って「随分乱暴な植民地だな」と思い、「仏領インドシナ」は「インドでも支那でもないじゃないか。なんでインドシナ・・・あ!そうか「仏領インドシナ(半島)と言うことか」などと無理やりな納得をしていた。
そんなだから、「仏領東インド」がインドネシアだなんて覚えたとしてもすぐに忘れてしまっていたんだと思う。
大体、何でもかんでも「インド」って名づけりゃいいってもんじゃない。「インドシナ半島」はインドでも支那でもないし、インド人が移住して住んでるからってそこが「インド」ってことにはならない。
なんで「インド」って言ったのか。それは単に西欧国の勝手なんだ。西欧人はそういう考え、悪く言えば差別意識、悪く言わなければ「大雑把」・「大体」、でアジアを捉えている。だから近東・中近東・極東なんて分け方をする。
それがいつしかそんな大雑把じゃ済まなくなって、近東、中近東、インド、シナ、極東(時々「極東の国日本」と言う言葉が出てくる)となる。
「蘭領東インド」。インドの東の地域。
インドの中の「東部」なのか、インドより「東方の地」なのか、「東インド」では分からない。「インドネシア」ではますますわからない。「ネシア」には「島々」くらいの意味しかないらしいから。インドの島々?何だそりゃ。
でも「インドネシア」ってのは驚くほど広大な地域だから、オランダにとってはこれを失うことは国家の存亡に係わる大問題。
大事な収入源を日本に横取りされた・・・んじゃなくって、とにかく奪われた。それだけじゃない。日本軍は植民地を奪っておいて、そのうえ、あろうことか自立の精神を教え、宗主国様に抵抗することを教えて、独立までさせてしまった。
だから英蘭仏の三ヶ国が同じ理由から日本に持つ怨み辛みは半端じゃないということになる。
でも、そんな怨み辛みは道義に反することだから、本来なら口に出して言えるようなことじゃないんだけど。
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「皇室はオランダとの付き合いを考えた方が良い」
オランダはナチのユダヤ人虐殺に協力し、あのアンネ・フランクも差し出した。
戦後は口をつぐんで復興に勤(いそ)しんだが、それが思うに任せなかった。
なぜなら国家財産を賄(まかな)い、なお余剰所得を生んでいた植民地蘭領東インド(インドネシア)が還ってこなかったからだ。
僅かの間、日本軍がそこを支配し植民地の民に統一語と軍隊ペタと同胞愛を教えた。鞭で打たれても飢え死にしても従順だった民は帰ってきた宗主国に団結して4年間も立ち向かい、ついに独立を果たした。
オランダは元の貧しい欧州の小国に戻った。元凶の日本を心から恨んだ。
韓国人みたいなコンプレックスからの反日ではない。彼らは白人意識に凝り固まる。それが捕虜にされ使役された。拭い難い屈辱に加えて金の卵を産んできた植民地まで日本軍が奪って、その結果がこの貧しさだ。
報復はまずBC級戦犯に向けられ、226人も処刑した。最後の一人は落下傘降下してセレベス島を制圧した堀口豊秋海軍大佐だ。
彼に死刑を宣告した裁判官は、このときに泣いて命乞いをした現地司令官F・ティウォンだった。
何の罪もないのになぜ堀内大佐は死刑なのかと問う弁護人にティウォンは言った。
「なぜなら彼は日本人だからだ」
高松宮はユリアナ女王に堀内大佐の助命を嘆願した。彼女は聞こえぬふりをした。
連合国は対日賠償請求を放棄したが、オランダは捕虜への補償名目で1500億円を取り立てた。このとき白人国ではスイスと三国同盟仲間だったイタリアも金をとって行った。イタリア人にその話をすると今も赤面して逃げる。
しかしオランダはその恥も知らない。ユリアナ女王の娘ベアトリクスが女王の座を継いで間もなく昭和天皇が崩御された。
世界中の王室がご大喪に参列したがオランダ王室だけは欠席した。
その2年後、ベアトリクス女王が訪日し、践祚された明仁天皇は歓迎晩餐会を開かれた。女王は陛下を前に「日蘭友好とは別に戦争被害を受けた人たちの心の傷をどう癒すか。問題は残る」と暗に追加補償を要求した。
(続く)
新潮文庫
「 変見自在 習近平は日本語で脅す」
高山正之著 より
「 変見自在 習近平は日本語で脅す」
高山正之著 より
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おやおや。まあ。なんとおっしゃるうさぎさん、ですね。
この後、高山氏の書かれていることを今の日本人はどう思うんでしょうか。