書評 しょひょう (宮崎正弘)
憂国の書は没後六十年、世間から相手にされなかった
幕末に蘇った林子平の先駆的国防論、現代語訳で復活
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家村和幸・編著『現代語で読む林子平の「海国兵談」』(並木書房)
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林子平は、高山彦九郎、蒲生君平と並んで「寛政の三奇人」と言われた。この場合の「奇」は優秀の意味だ。
根っからの勉強好き。警世家であり、脱藩して苦学独学を重ねた。著作旺盛、28歳のときに『富国建議』を書き上げて藩に提出したが無視された。蝦夷地探検にも赴き、長崎留学中の38歳のときに初めて世界地図をみて衝撃を受ける。
『日本は世界と海でつながっている』。
海防の重要性に気づき『海国兵談』を執筆する動機となった。しかし『海国兵談』は資金難で寛政三年(1791)にわずか38部が印刷されたに過ぎず、幕府に睨まれ入牢、仙台で謹慎処分となり、失意の裡に死んだ。
憂国の書は没後六十年、世間から相手にされなかったのも驚きだが、自費出版の僅少冊子が幕末に外国船が出没するようになった突如、蘇ったのだ。紹介本がたちまち維新の志士たちの必読文献ともなって広く読まれたのである。
この林子平の先駆的国防論、現代語訳で復活である。
さて本書を論ずる前に林子平が「古代のことはともかく」として省略しているが、天智天皇の大失敗「白村江」に触れておきたい。これこそ日本が初めて体験した本格海戦だったからである。
斉明天皇七年(661)白村江に出撃した日本軍は三派に分かれ、第一派は1万余。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津である。斉明天皇が急死のため、第二陣は出航が遅れた。第二派が主力で2万7千人。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫だった(阿倍比羅夫は後詰め説あり)。
第三派は1万余人。指揮官は廬原君臣だった。
第一派は百済の豊璋王を護送する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人というが、別の史書では5000名とある。
天智天皇元年(662年)3月、主力部隊である第二派軍が出発した。緒線は援軍を得た百済復興を目ざす陸軍が、百済南部に侵入した新羅軍を撃退し、勢いがあった。
ところが唐が増援のために劉仁軌率いる水軍7000名を派遣し、唐・新羅合同軍は、集中撃破の海戦に転じた。劉仁軌、杜爽、扶余隆が率いた170余隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と合流、日本軍を挟撃した。
日本水軍は訓練不足、海戦に不慣れな上、潮の満ち引きの時間、地形、海流の特徴をしらず、火力に劣った。
あまつさえ大和朝廷側は統合指揮官が不在、作戦も杜撰きわまりなく、戦争慣れした唐は戦術でも猛威を発揮した。こんなときに百済軍は内訌、内紛に明け暮れていた。
日本船団は白村江への到着が10日遅れ、劣勢挽回とばかり白村江河口に突撃海戦を展開、史書によれば三軍編成をとって4度攻撃したというが、白村江に出航し軍船のうち400隻余りが炎上した。
筑紫君薩夜麻や土師富杼、氷老、大伴部博麻らが唐軍の捕虜となった(六年後に帰還)。第一派の安曇比羅夫は戦死したらしく、以後九州を拠点において水軍でならした安曇氏は信濃へ移住させられた。
安曇氏の始祖は『古事記』によれば海神(ワタツミ)である。長野県の安曇野市は安曇比羅夫に由来し、同地の穂高神社の拝殿前、神楽殿の右手にある若宮の祭神は安曇連比羅夫だ。御船祭りは阿曇比羅夫の命日に開催されている。
天智、天武、持統天皇は海戦敗北に懲りて水軍を立て直した。のちに鎌倉幕府は元寇でフビライ軍を敗退させた。信長は大阪攻めに水軍を強化した。秀吉は嘗てなかった大海軍をつくって朝鮮半島に攻め入った。
切支丹バテレンを追放し、江戸幕府は鎖国に踏み切るが、天草四郎の乱では、火力をオランダにたよっての辛勝だった。やがて鎖国となり、異国の軍事的脅威が去ると防備は忘れられ、吉宗の代あたりから国防意識は脆弱になった。
その「平和の時代」に林子平が海防の重要性を説いたのである。
林子平はまず主要敵であるシナの沿革を説き、「秦始皇帝から漢王朝の時代は「日本の広狭、並びに海路等の事を詳しく知ることができなかったのである。唐の時代には頻繁に日本と往復して、海路や国郡等のことまで詳しく知るようになったけれども、互いに友好関係を深めていたことから、侵攻してくることはなかった。」
白村江戸前後のことを林子平はこう書いた。
「唐山(唐王朝)の船は長大ではあるが、製造法が拙いため、その船体は頑丈ではない。元より唐山人(シナ人)は船のことを『板』と呼んでいる。心の奥でただの板だと思っており、その板に乗り水を渡って用をなすまでの事だとしか考えていないので、その製造も粗末になるのだ。ただ五色鮮やかな漆喰を用いて塗装することで壮観さを示すだけである。これを破砕するには、大砲や大型の弓を用いて容易に砕けばよい」。
外観を強そうに飾る。いまも中国海軍は同じではないのか。
そして戦い方に異国の軍との差違をのべている。
「異国人と戦う上で最も重要な心得がある。異国人は血戦が得意ではないので、種々の奇術奇法を設けて、互いに相手の気力を奪うことに努める。その国人同士はそれを見抜いて心構えもできているが、そのことを知らない日本人は彼らの奇術に遭えば、恐れ入ってじつに肝を奪われ、臆病を生じて、日本人の得意とする血戦さえも弱くなってしまうのである」
(まさに白村江がそうであった)。
現代日本、国防論花盛りだが、本書は国家安全保障議論の原典と言える。
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)10月18日(火曜日)
通巻第7495号より