CubとSRと

ただの日記

GB250 (後半)

2023年08月01日 | バイク 車 ツーリング
 不快
       2019年2月16日

 木曽の山中を距離感を狂わされながら走る。視界一杯の緑に包まれながら、冷涼で清澄な朝の空気の中を走る。

 日々、丸みを帯びた森や深い緑の西日本の景色を見て通勤している。
 信州の鋭く透き通って見える硬い緑の木々と、不思議なほど近くに感じる高い山々は、長い間忘れていた「何か」を思い出させようとしている。
 擦れ違う車はほとんどない。道は適度にうねり、滑らかな路面が続く。
 伝わってくるのはGB250の角張ったシリンダーからの、これまた見事なくらいに精確な角張った振動。
 高度なテクニックを誇る軍楽隊のドラムがハイスピードで打ち鳴らされている、それも低周波だけがガチガチのブロックのように押し寄せて来るような。そんな振動。
 
 過去の信州の思い出に浸りきれなかったのは、このセンチメンタルさを拒否するような角張った振動のせいだった。一言で言えば「人間味がないエンジンの振動」。
 「当たり前だろ。機械なんだから」
 勿論、言われるまでもなく、それは分かっている。エンジンの振動に人間味があったらそれこそまずいことになる。ハーレーの不規則な振動や燃焼音だって、ありゃぁ人間味じゃなくって輓馬の足音だもの。馬ではあっても人間じゃない。
 GBの振動には「棘」とまではいかずとも、角がある。シリンダーヘッドのタペット音かもしれないけれどその時はまだ何も分からない。ただ僅かな金属音の角みたいになって神経に障る。カチカチという音のような振動を感じる。
 アクセルを開ければ、その機械音は「振動音」として身体に伝わってくる。シートからも、タンクからも、ハンドルからも。押しの強い微振動。
 
 これが違和感として、あった。どうしても馴染めない。でも、自分の我儘なのだろう、多分。
 自分の技術の低さのせいだ。
 当たり前だ、石の上にも三年。運動神経が鈍い上に乗り始めてからまだ半年、GBには3ヶ月足らずだ。
 GBは見映えのいい、カッコいいバイクだ、それなりに気難しくってハードルも高いんだ。

 泊まれる宿が見つかり、風呂に入る。身体全体の疲れが心地よい痺れとなって湯の中に溶けていく。

 夕食を摂る時になって「それ」に気が付いた。
 湯に浸かった時、身も心もほぐれた。今はただ「気持ちが良い」だけの筈、なのに夕食の膳を前に箸を持ったら、何かがおかしい。
 グローブをしたままで箸を持っているような気がする。
 バイクを降りて、風呂に入って、だからハンドルから手を放して、もう一時間以上経っているのに、まだ手が痺れている。気持ちの良い痺れではない。「痺れが切れた」ような、とげとげしているけど、反面、笑ってしまいそうな痺れではなく、麻痺しているのに妙な刺激はある、もどかしい痛み。

 結局、この痺れは夜中まで続いたが、翌朝にはおさまっていた。
 ツーリング中、嫌な思いを何一つしなかった、なんてことはない。いつだって、不快・イライラ・もどかしさ等、色々な嫌な思いはある。でも、それらはツーリングの味、薬味でもある。
 この、手の痺れというのは、他の不都合、不具合とは違っていた。
 他の嫌な思いはみな単発的で一過性のものだ。時が経てば全て良い思い出になる(交通事故は別だけど)。
 けど、この手の痺れというのはおそらくGB250に乗っている限り、続く。

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 優等生
       2019年02月17日

 手が痺れる。一晩寝て、やっと直った。
 不快だった。
 そりゃそうだろう、気持ち良く一日走って、でも、結構神経使って、心地よい疲れと怠(だる)さが風呂で汗とともに流された。
 心地良さだけが残って、ちょっと時間が経ったら目の前に御馳走が並んでいるんだ。
 ビールがうまい。箸を持って目の前の料理を、と手を延ばしたら箸と指の間に違和感がある。まだ手が痺れている。
 手ではなく指先が痺れている。気になると折角の料理の味が落ちる。
 手に持つ箸先で料理を挟む、その触感も料理の味だ。
 「手が、特に指が痺れていれば、いっそ目をつぶって食べたら?」
 と、今、思ったけれど、そんなことしたら「独り二人羽織」状態で笑うしかないな。
 「面白うて やがて悲しき 鵜飼かな」笑えても楽しくない。

 色々考えてみた。理由は大体見えて来た。
 「250ccの枠の中で、最大のパワーを」ということで、高回転型のエンジンを作ることになる。
 ホンダの高い技術力がある。高回転を続けてもガタが来ないエンジン。単気筒のエンジンでこれをやる。
 高回転型だから、ピストンのストロークは当然短くなる。
 ショートストロークのエンジンは回転数が高くなれば、振動も回転数分高くなる。
 小さくて強い振動はフレームを同じく高振動で同調させる。
 ピストンのストロークが長ければ、フレームの持つ固有の振動と同調したり、反対にフレームの振動にうねりを生じさせたりする。アイドリング時にハンドルミラーが振動しているけど、あれにかなり大きな波があるのと同じだ。
 同調したりうねったりするということは、回転数次第でエンジンの振動とフレーム固有の振動とが打ち消し合ったり増幅したりするということで、上手くいけばとても気持ちの良い振動を発生させたりすることもできる、ということになる。だがショートストロークのエンジンは、これが難しくなるわけだ。

 大体、バイクのカタログに「振動の心地良さ」なんて項目は、ない。雑誌のインプレッションなんかでも、あまり書かれない。「そんなの、好みの問題じゃないか」で終わり。
 ショートストロークのエンジンは、事務的に振動をフレームに伝える。フレーム固有の振動、独自裁量を許さない。
 早い話、GBは見映えの良さの通り、均整がとれて全く無駄がない分、実は「遊び」「余裕」がないバイクらしい、ということだ。
 脂肪の全くないボディービルダーみたいなものか。必要最小限のガソリンしか摂らない。そのくせ強固な心臓を持っている。
 
 だから分かったことがある。
 「手が痺れること」以外は、何一つとして不都合なことはないということだ。
 だからこそ、翌年にはGBで北海道に行ったし、その翌年には東北ツーリングにも行った。不都合への対応策は段々に実行できるようになった。
 嫌な手の痺れが残る、という「不都合な真実」が分かったことで、パワーとかトルクとかいうものに対する見方が変わり始める。

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 優等生と付き合う
          2019年02月17日

 翌朝には手、指の痺れはなくなっていたので一安心。
 でも、あの嫌な感触の痺れを思い出させるハンドル振動は避けようと努力し始めた。
 同じ回転数で、同じギヤで走り続ければ同じ振動が続く。それでも低い振動なら「身体だって固有の振動を持つフレームのようなもの」と仮定すれば、ついていけなくもないだろう。
 けど、身に過ぎるエンジンの高振動には生身の身体じゃ無理だ。ついていけない。
 
 ということは、「エンジンの回転数をあまり上げない、上げたとしても同じ回転域で長時間走り続けることは、やめる」ようにすれば、フレームの同調振動で手や指が痺れる、なんてことはなくなる(だろう)。
 一定の高回転域で走り続けないようにする。高速道路では特にそうなり易いから、気を付ける。
 できるだけ回転数を落とし、単気筒エンジンの振動を「楽しもう」。
 何のことはない、教習所で何度も聞かされた「メリハリのある運転をする」、ということだ。 
 信号ではクルマと距離を置くため、早めの加速を心掛ける。(一気に引き離せば、クルマは追い掛けては来ない)
 カーブに進入する前に十分に速度、ギヤを落とし、鋭角的に方向を変え、できるだけ早く体勢を立て直して加速する。スローインファーストアウト、だ。
 そして直線道路では、トップギヤで制限速度前後で流す。直線こそ人・車の飛び出し率が高い。

 見通しの良い幹線道路を走っていたVmaxにわき道から出て来たクルマがぶつかり、あの低重心のVmaxが宙を飛んだ、という目撃談もある。
 これらのことは、何も教習所の狭いコースや込み合っている街中、郊外の走行だけで、気を付けるべきことではない。却ってツーリングのような、或る意味、運転技術・ペース配分が大雑把であっても通用するような場でこそ、注意すべきことだった。
 
 ツーリングに最適な走り方は、犬のように(長距離を)淡々と走るようなものか、と思っていたけど、そしてその方が長距離を走る上で疲れないような気がしていたけれど、どうもそうではないらしい。
 犬よりも猫のように、素早く加速する。バイクはクルマより軽いんだから。カーブも緩やかに曲がるのに身を委ねるのではなく、意識的に早く立ち上がろうとする。軽いからできる。筈。
 直線で速度を上げるのは、ツーリングの醍醐味である「絶景の中を走る」楽しさを半減させる。

 GB250の「不都合な真実」。
 「250cc単気筒では最大」と自慢できるパワーを発揮させよう、と高回転で長時間走り続けることのナンセンス。
 「パワーを使い切る」と言う考え方は、「トルクも使い切る」「操縦性も」等々、色々な「使い切る」の強迫観念に苛まれることになり、おちおち「ツーリング」なんて悠長なことをしていられなくなる。
 そんな完璧と言うか、全く余裕のないことを求めてたんじゃ、ツーリングなんてちっとも楽しくないだろう。

 小説「スーパーカブ」の浮谷社長曰く「修行じゃないんだからさあ」。
 回転を上げて一定の高速度で走り続ける、なんてことをしなければ、GBで手、指が痺れるなんてことは回避できる。優等生に「優等生だから」と、まるで師に対するように接したりすれば優等生も大変だ。何故って「他人より(少し)優れているだけ」なんだから。その「優等」は大方、他人より努力した結果であって、「(格段に優れている=)秀でている」のではないのだから。
 頑張っているところを見ないで結果だけをほめると、優等生は「もっと頑張らなきゃ」と強迫観念に・・・。

 GB400には余裕があるみたいだけど、GB250はいっぱいいっぱい。400は秀才だけど、250は優等生。
 だからゆっくり走らせなきゃ、逆にGB250のカッコよさが見えないんじゃないかな、と、この頃思う。
 と言っても、もう乗るチャンスもないだろうけど。









コメント
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