先日(2023年08月13日 )、転載日記の最後に、
「そういえば未だに「西郷は征韓論の首謀者」と思っている人がいるみたいですね。」
、と書き足したんだけど、流石に今の教科書には「西郷の征韓論」なんてのは載ってないと思いますが。
先ほど思い立って「明治六年の政変(中公新書)」を引っ張り出して序文を読んだら、この本、1979年に上梓されています。
「え?四十年以上も前なのか。しかしこの間に西郷の評価は変わっているのだろうか」と思いました。
以前、「歴史学者は人心を知らない」と日記で書いたことがありますが、見ようとすれば、時にいとも簡単に看取できるのが人心。
山岡鉄舟とのやり取りで、先述の新書にある通り、「征韓」ではなく「遣韓」を主張していたのは言うまでもないことでしょう。
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鉄舟を訪(おとな)う
2010.03/07 (Sun)
山岡鉄舟の家に客があった。
鉄舟の子が出て、「化け物が何を言うか!」と精一杯の声を客に投げつけ、慌てて鉄舟のところに戻って来た。
それで、興奮して
「玄関に化け物が来て、『おとっさんは御在宅か。西郷が来たと伝えて下され』と言って居ります」
と伝えた。
出てみると、大きな目玉に丸坊主、耳は肩に届こうかというほどの異様な姿の大男。玄関一杯の大きな影の中、これまた大きな目だけが目立ったのでしょうが「化け物!」とはよっぽどびっくりしたのでしょうね。
鉄舟も大男で、1メートル90近かったそうですから、子供なら、慣れていそうなものですが、やっぱり太さが違う。目も鹿児島では「うどめさぁ(大目玉さん)」と呼ばれていたくらいだから、やっぱり目立っていたのでしょう。
勿論、これが西郷隆盛で、江戸開城前の直談判に、鉄舟が駿府に来ていた西郷のところへ単身乗り込んでいった時以来の知り合いです。
いや、知り合いを通り越して、「肝胆相照らす仲」というべきでしょうか。
何しろ、錦の御旗を押し立てて、江戸城総攻撃のために東進する官軍の真っ只中を一人、突っ切って行くのです。
それも、宿営地の前を通る時には「幕臣、山岡鉄太郎、罷り通る!」と名乗りを上げていくわけです。
単騎、駆け抜けていくのを、呆気に取られて見て、それからはっと我に返り、地団駄踏んで口惜しがった、という隊長は何人もいたとか。
後日、大総督府から呼び出され行ってみたら、村田新八が出て来て
「あの時、私と中村(中村半次郎。後の桐野利秋)が、追いかけて行って切ろうとしたのだが、間に合わず、あんたは西郷に会ってしまった。あんまり口惜しいからそれを言いたかった。用事はそれだけだ」と言った。
彼等も敵ながら天晴れ!みたいなもんですね。
また、脱線しましたよ。
気を取り直して。
この「至誠」を絵に描いたような男に、すっかり感心した西郷は、動乱の中で気持ちが荒んでいる明治天皇の侍従を引き受けてくれ、と頼み込んでいます。二十歳を過ぎたばかりの青年天皇の教育係を、と思ったわけです。
毎晩大酒を呑んで暴れる明治天皇に、酒好きでは人後に落ちない鉄舟が、「私もやめますから、陛下もおやめなさい」と強談判をし約束を取り付けます。
約束どおり明治天皇は酒を呑まない。鉄舟も辛抱している。我慢比べではないのですが。
ところが、2日、3日と経つうちに、陛下の顔色が良くなるどころか、だんだん冴えなくなった。鉄舟も心配になってきたが、ここが勝負どころ。
でも、悪くなる。で、とにかく連夜の深酒をやめ、それどころか、何日も禁酒をされたのだから、と「よく辛抱なされました。これはご褒美です」とワインを差し上げたそうです。
これも酒ではないか、と言われるのに、これは身体によい酒で食事とともに摂るものだから、と何だか妙な理屈をつけて。
以後、ワインなら二本まではよいことにした、とか。
(毎晩ワイン二本って、、、、。相当だけど。)
西郷の思ったとおり、明治天皇は鉄舟の感化を受け、後には、世界中から尊敬されるようになります。
宮中ではよく顔を会わせていても、家を訪れたのは初めてです。
これが、明治6年。西郷は一升徳利を提げて、一枚しか持ってないと言われていた着物姿でした。
言いたいのはここからの数行です。
持ってきた一升徳利の酒と、沢庵で、二人は謎のような会話をしていた。
激して酒がこぼれたことも気付かずに。
西郷「朝鮮にひと戦しに、行かにゃならん」
鉄舟「さよう、戦などするものではない」
西郷「鳥が騒ぐから猟師が来る」
これが、西郷の唱えたという「征韓論」です。
どこが征韓論?