◇☆◇ 国史烈々(こくしれつれつ)連載(8)歴史エッセイ ◇☆◇
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
♪
陽明学者、大塩平八郎の乱
@@@@@@@@@@@@
大塩平八郎の乱と後世に呼ばれる社会擾乱は、庶民、学者、武士、町民が一緒になった大阪の暴発劇だ。
正義を尊んで知行合一を志す学問「陽明学」の著名な学者だった大阪奉行所与力の大塩平八郎が不正、腐敗、世の中の飢えを救うために立った義挙である。
(略)
乱が鎮圧され、大塩平八郎は弟子筋の隠れ家を転転として一ヶ月あまりを潜伏したが、ついに隠れ家を発見され、縛吏が踏み込む前に自刃して果てた。享年45歳。
大塩がすぐに自決しなかった理由が最近の研究で分かった。
それは幕府が口封じした大塩の檄文は、大量に複製されて当時から知られていたのだが、別に幕府要所への「建議書」が存在し、それが1990年になって偶然、発見されたのである。
江戸の要所に配布されるべき大塩の建議書に対して幕府側の反応を大塩は待っていた。しかし建議書は伊豆代官所で留め置かれ、幕府要衝には届かず、待っている間に町方に隠れ家を発見されたのである。
それから133年後、大塩の乱を克明に描いた「革命の哲学としての陽明学」を表した三島由紀夫は自ら日本刀を持って自衛隊北部方面総監室に乗り込み、檄文をまいて自衛隊にクーデターを呼びかけ、その試みが(予測された通りに)不発に終わると、楯の会学生長の森田必勝とともに凄絶な割腹自決をとげた。三島の享年も大塩と同じ45歳。その「三島事件」と呼ばれる諫死の日は吉田松陰の旧暦命日でもあった。
(略)
志高く、暮らしは慎ましやかにして奢侈にはしらず、ときに狷介孤高の学者だった大塩平八郎は塾生、門下生をかかえて日頃から知行合一の講義をしていた。王陽明の研究にも邁進した。
そして飢餓にくるしむ町人が大阪の街に溢れるのに何もしない奉行所に立腹した大塩平八郎は、まず大切な蔵書を千二百冊売った。六百五十輌になった。ところがその行為を役人どもは大塩の売名行為となじった。
行動しなければならない、大塩は陽明学の要諦を思い出したのだ。
「陽明学が示唆するものは、このような政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいとするかたくなな哲学である」(三島由紀夫『行動学入門』、集英社文庫)。
しかし決起のことが門下生によって幕府方に密告され、準備不足のまま、不意に決起へと到らざるを得なかった。
自決前に「革命の哲学としての陽明学」を書き残した三島由紀夫はこう書いている。
「陽明学はいまや埃の中に埋もれ、棚の奥に置き去られた本」となったが、「陽明学は、明治維新のような革命状況を準備した精神史的な諸事実のうえに、強大な力を刻印していた。陽明学を無視して明治維新を語ることは出来ない」
そして、「中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といわれる大塩平八郎の乱の背景をなし、大塩の著作『洗心洞察記』は明治維新後の最後のナショナルは反乱ともいうべき西南戦争の首領西郷隆盛が、死に至るまで愛読した」(『行動学入門』所載)。
大塩平八郎の乱が激甚な衝撃を与えたのは「地位も名誉もある」「知識人」が、そうした世俗の価値を否定するかのように「別に彼がしなくてもいいのに」「誰かがやってくれるだろう」と虚無に陥った大衆心理の隙を突くかのように、自ら決起したことである。
その凄まじいまでの自己犠牲への深い哀悼であり、それに比べての己を恥じる心根が、大塩平八郎への称賛にかわるまでさほどの時間を要しなかった。
かくして西郷隆盛に代表される幕末維新の英雄たちは、大塩平八郎の精神を雄勁に力強く継承し、日本の正気(せいき)が蘇るのである。
★
(拙著『吉田松陰が復活する!』、並木書房から縮約し抜粋)
https://www.amazon.co.jp/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0%E3%81%8C%E5%BE%A9%E6%B4%BB%E3%81%99%E3%82%8B-%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/4890633235
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)8月14日(月曜日)
通巻第7862号より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【「地位も名誉もある」「知識人」が、「別に彼がしなくてもいいのに」「誰かがやってくれるだろう」と虚無に陥った大衆心理の隙を突くかのように、自ら決起したことである。】
「何故、すぐ自刃せずに逃げ回っていたんだろう。陽明学者らしくもない」と思っていたのだが、それが建議書に対する幕府の見解(反応や対応)を知るためだった、と知ったのは、確かに三十数年前のこと。(幕府要所への「建議書」が存在し、それが1990年になって偶然、発見された。)
三島由紀夫が自決したのは1970年。
「逃げ回っていた」のは何故だろう、と思ったのは高校の日本史の授業中、1971年。
大塩と三島の関わりなんか考えもしなかった。
勿論、日本史の授業でもそんな話は全く出てくることはなかった。
それはともかく。四十近くになって建議書の存在を知った時、三島との関わりは言うまでもなく、大塩のとった行動を見つめ直してみようとすらしなかった自分。
そして今、七十を目前にして何を思う?
う~ん・・・台風の心配とか、明日は酒が飲める、とか?
今日は「敗戦の日」なんだけど。