◇☆◇ 国史烈々(こくしれつれつ)連載(7)歴史エッセイ ◇☆◇
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朝鮮通信使は日本への朝貢だった
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戦後の歴史教科書では「朝鮮通信使」は豊臣秀吉がなした「侵略」に対して江戸幕府の懺悔、謝罪のために朝鮮通信使を厚遇したとまるっきり倒錯した史観で貫かれている。
そんな真逆の解釈がまかり通るのは日本人特有の自虐史観のなせる業だろうか。
秀吉の朝鮮半島進出が「侵略」であったわけだから、日本は謝罪し、賠償金を払っても当然という錯誤した歴史解釈を日本の左翼マスコミ、日教組、そして韓国の「学者」が共有している。
倒錯史観というより戦後「創作」された出鱈目である。
秀吉の朝鮮進出は切支丹伴天連の日本侵略を予防する自衛の戦争だった。イエズス会は今日の定義で云えば「IS軍」やアルカィーダであり、宣教師は仮の姿であって、侵略の可能性を探るために派遣されてきた先鋭偵察隊だった。
朝鮮通信使は、第一に徳川幕府の政治的意図が秩序安定の目的だったこと。第二は朝鮮側の自主的な意思、そして背後にちらつく中国の思惑である。
第一回の朝鮮通信使派遣は1607年、家康が征夷大将軍となってから四年後。使節は誰に挨拶をするべきかを的確に知っていたのだ。しかも日本に謝罪を求めるのではなく、朝貢が目的だった。江戸幕府に臣下の礼をとりにきたのだ。
記録を何度読み返しても、朝鮮が大型使節団の派遣に踏み切り、「四拝半」という臣下の礼をとっての朝貢だったことは明らかである。戦後、この大事なことを歴史教育は教えず、左翼学者は意図的に無視した。要するに朝鮮が江戸幕府のご機嫌をとる必要性があった。合計十二回もやってきたが、なかには屈辱的(使節側からみれば)に日光東照宮への参拝を要請された。
もっとも注目するべきは朝鮮側が通信使を十二回派遣したが、「日本側は朝鮮に使節団を派遣したことは一度もない」という動かない事実である。
日本にやってきたのは当時の朝鮮の知識人だった。それゆえ屈辱の鬱憤を晴らすために日本の印象を悪くする報告を書き上げた。
ところが朝鮮使らが日本で目撃したのはモノに溢れ、庶民の生活が豊かであり、礼儀正しく、清潔で、文明が高いという衝撃だった。ますますかれらの屈辱的劣等意識は沈殿していく。居場所がない。あまつさえ朝貢にきた朝鮮使節団を江戸幕府は冷遇せず、高飛車にも出ず、日本は「おもてなし」に徹した。
「当時の江戸幕府と幕府の命令を受けて通信使の接待にあたって沿道の諸大名は、むしろ財力と誠意の限りを尽くしてかれらを最高級の賓客としてもてなした」(石平『朝鮮通信使の真実』ワック)。
にもかかわらず負い目を逆転して自分たちのほうを高みに置くために、通信使らは日本の知識人の詩歌が稚拙であり、教養が足りないとか、字が汚いとか、林羅山は教養が劣るとか、そう報告することによって精神的な高低を自らが採点し、自分らを高みに置かなければ屈辱を晴らせないという強迫観念に取り憑かれざるを得なかった。
朝鮮通信使の裏側の真実は、歴史教科書とかくも隔たりがある。
(拙著『歪められた日本史』、宝島社新書)から抜粋)
https://www.amazon.co.jp/dp/4299029143/
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)8月13日(日曜日)弐
通巻第7861号
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そういえば。
日中国交正常化を図って当時の総理田中角栄氏が訪中した時、氏が漢詩の創作を趣味にしていたことを知っていた毛沢東主席は、「詩の作り方」という本を贈呈したとか。「韻の踏み方がなってない」とか「詩の体裁も整ってない」等の皮肉を込めて。
角栄氏、喜んで受け取ったということだけど、本心はどうだったんだろう。毛主席の心遣いに感激していた?
元々主席との会見は設定されていなかったのだそうだ。会見中の写真には主席の口唇に光る筋(涎?)が映っていた。既に会見のできる状態ではない、と上層部が設定していなかったらしい。