◇☆◇「国史烈々」(こくしれつれつ)●連載(6)◇☆◇
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「朝鮮の役」は秀吉の野望からでた侵略戦争ではない
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所謂「朝鮮の役」は秀吉の「野望」であり、朝鮮半島への「侵略」であり、我が子を失った気休めに朝鮮戦争を引き起こしたとか、論功行賞が不足して領地が足りなくなったので海外侵略を狙ったとか、まるで史実を無視した歴史解釈がいまも横行している。
歴史学者の解釈は支離滅裂であり、教科書の歴史教科書も「侵略」と定義している。
秀吉はキリスト教の野望をはっきりと認識していた。
ポルトガルはマカオを領有し、台湾に進出していた。スペインはすでにフィリピンを領有していた。
切支丹伴天連の野望は次に明を侵し、その明の軍団を駆使して日本を落とすという野心があったことは残された書簡から明らかになった。証拠となる文書が夥しく発見された。
秀吉は事前の手を打つ必要があり、朝鮮への先制攻撃的な進出は「祖国防衛の予備戦争」だった。こんにちの国際政治学でいうところの「PREEMPTIVE WAR』(予防的先制攻撃)である。
秀吉は国内を統一した軍事的余裕を得て、朝鮮への渡海作戦を立案する。この戦略立案の帷幄に秀吉は軍師だった黒田官兵衞を呼ばなかった。
「天下を次ぎに狙うのは黒官だ」と周囲に漏らして秀吉は官兵衞を遠ざけたという逸話が人口に膾炙されているがすこぶる怪しい。朝鮮への渡海理由は耶蘇教の脅威への対抗であり、クリスチャンだった黒官をトップの戦略レベルへ引き入れるにはマイナスが多いと秀吉は判断したのだ。
キリスト教の情報ネットワークに利用される懼れがあり軍事作線の機密が漏れることを避けたのである。
天正十八年(1590)あたりから秀吉は渡海作戦の具体策を練りはじめた。
黒田官兵衞に与えた役目は名護屋城の縄張り、その普請である。名護屋城の跡は石垣が残り、当時の面影を留める。佐賀県唐津市鎮西町名護屋が地名である。肥後名護屋築城の工事は天正十九年十月から僅か半年で完成という突貫工事、縄張りされた設計思想は曲輪の配置など黒田官兵衞の特徴が顕著である。
家康は渡海を免れたが、息子等は従軍したうえ、家康自身は名護屋に一年半にわたり滞陣している。
筆者が最初に名護屋城跡を見に行ったのは四十年ほど前で、佐賀県呼子(よぶこ)までバスで行き、そこからかなりの距離を歩いた記憶がある。
呼子はイカで有名な漁場で映画「フーテンの寅さん」のロケ地になったが、地元の寿司は美味くなかった。
令和四年一月、筆者は唐津から名護屋城跡を通過するバスに揺られた。バス停から坂道を十分ほど登る。丘陵に達すると石垣跡が視界に入った。海風が強く帽子が吹き飛ばされそうになる。
大規模な造作であり敷地面積は大坂城につぐ広さ(17万平方メートル)。海に突き出した小さな半島に島津義弘陣跡、おなじく陣屋跡は上杉景勝、九鬼義隆、福島正則、前田利家、加藤清正、小西行長、豊臣秀保、徳川家康、堀秀治、鍋島直茂、生駒親正、黒田長政、毛利秀頼、伊達政宗、古田織部、片桐且元、木村重隆、長谷川秀一ら二十四箇所、馬場に曲輪、大手門、本丸、二の丸、三の丸とあってぜんぶ廻ると三時間以上はかかるだろう。
全国から大名が勢揃いしたわけだから当時の人口は二十万人を超え、兵站、食糧を支え後方支援部隊も大変な難儀をした。
敷地の端に佐賀県立名古屋城跡博物館という立派な建物ができていた。
前に見学したときは何もなかった。草ぼうぼうの荒れ地で海岸も見渡せた。 昭和51年(1976年)から整地が進み、公園として整備されて駐車場も完備、バスも近く停車するようになってバス停前には「道の駅」。土産屋と食堂もできた。
この博物館を見学してがっかりしたことがある。なるほど仏像、陣羽織、秀吉画像、秀吉が北の政所にあてた手紙、絵巻、瓦、大皿などが陳列されているが、何のための戦争だったのかをちゃんと説明していないのだ。
通説通りの日本の侵略だったかのようなイメージを見学者が持つことになる。後味の悪い感想を抱いた。
天正二十年(1592)四月、第一次朝鮮出兵が開始された。
最初の渡海はじつに15万8800人。朝鮮半島では日本軍快進撃のあと、戦線がふしだらに長くのびきって兵站を支えきれなくなり、住民の反乱も起こる。背後で明が扇動していた。そして朝鮮、明の連合水軍に日本軍は海戦で敗北を喫したため日本から食料を補給する兵站がずたずたにされた。
李舜臣が率いた水軍に制海権を奪われ、以後は苦戦を強いられた。朝鮮では李舜臣はいまも民族の英雄として祀られる。
文禄二年一月に小早川水軍が奮戦した碧蹄館海戦でようやく明の水軍を破り、和平への機運が盛り上がった。李舜臣は露梁海戦で戦死し、死後の諡は忠武公。大きな石像はソウル中央に聳えている。
講和条件をめぐる話し合いは秀吉の提示した条件と合わず、加えて国書偽造問題が発生して長期化、その挙げ句に決裂した。
従来、秀吉が激怒したのは「日本国王の册封」を求められ激怒したとされたが、近年、この説は否定されている。
慶長二年から第二次出兵が開始された。動機は朝鮮側の非礼にあった。唐への進撃は秀吉の思考回路には存在せず、朝鮮半島の南側の恢復と安定が戦争目的となった。
おもいだすではないか。古代の新羅の非礼を。そして征韓論をとなえた西郷隆盛は朝鮮の非礼に怒って非武装で説得に行くと言い出した。福沢諭吉は「悪友と謝絶せよ」と唱えた。
文禄・慶長の役は、得るところ甚だ少なくして犠牲多く、秀吉の死が終里に導く結果となった。
日本軍の撤兵完了まで秀吉の死は秘匿されたことは言うまでもない。
(拙著『歪められた日本史』、宝島社新書)から抜粋)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和五年(2023)8月13日(日曜日)
通巻第7860号より
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そういえば未だに「西郷は征韓論の首謀者」と思っている人がいるみたいですね。