8月6日(日)
4時45分から5時15分まで散歩。
昨日は「明日は今日よりはマシだろう」と思っていたが、ますます熱風が。
昨年風鈴を二つ買った。気分次第で三つを交代で吊り下げることにしている。
一つはガラス。乾いたカランカランという音がする。
二つ目もガラス。「こんな音がするのがガラス」という見本のような音。
三つめは鋳鉄。いかにも鉄らしい、澄んだよく伸びるチリーンという音がする。
高価なので手に入れることは出来ないが、姫路に「明珍火箸の風鈴」というのがある。
昔の鎧師で「明珍(みょうちん)」という家があるのだが、明珍の鍛えた鎧や兜は全国的に有名で、明治初期だったか幕末だったかに、兜の試し切り会があって、その時に供されたのが明珍作の兜。
各流の有名な師範が挑んだものの、却って刀が曲がったり弾き返されて自身が仰向けに転倒したりという散々な結果だったという。
そんな中で直心影流の榊原鍵吉だけは同田貫(どうだぬき)派の豪刀で長さ10センチ余りの切込みを入れることができたのだとか。
その明珍家。明治以降は当然のこと鎧や兜の注文は全くなくなって、このままでは明珍の名前も家も消えてしまうところまで追い詰められた。
しかし、家伝の鉄を鍛える技術だけは伝えていかねば、と、火鉢に使う鉄火箸をつくることにした。元々が大変な技術を持った家だから、立派な鉄火箸が評判になっていったが、火鉢を使う家自体がどんどん少なくなっていく。
「もうこれまでか」となった時、発想の転換というか、ちょっとした遊び心というか「こんなにいい音がするんだから、吊り下げて風鈴つくろうか?」となったんだとか。
この「風鈴でも作ってみるか」という話、昔々にローカルニュースで見た覚えがある。石造りの教会のパイプオルガンの残響の長さが裸足で逃げ出すほどの、長い長い澄んだ残響。
ただ、高価で(私には)入手困難だから言うんじゃないけど、この長い残響が風の強い日は(悪い意味で)たまらんだろうな、と。
脱線した。
ここ二週間ほどは雨と、でなければ熱風、更には照り返しの酷さ等で、とてもじゃないけど風鈴を吊り下げようという気にはならない。だから何とも思わなかったんだが。
普通ならひと夏の間、提げっぱなしにしていると思うが、この頃は騒音問題を意識してしまう。
風鈴が騒音になると思わないのは、実は吊り下げている当人だけではないか。
仕舞い遅れた秋の風鈴の音の寂しさ。(季語になってるかも。)
けど、それを「風流」という気持ちは当人以外になさそうな。
逆に「寒々しくて感じが悪い」と周囲は思っているかもしれない。
実際のところ、近辺に風鈴を下げている家など一軒もないのがその証拠(?)。
祭日に国旗を掲げている家もない。それは関係ない、か。
いや、でも去年ホームセンターに風鈴買いに行った時は既に売り切れていた。ということは買っていく人がいるということだ。
外出せず、茹だったような頭で昼寝ばかりしているからしょうもないことばかり考える。
そうそう、徒然草にこんなのが。
「閼伽棚に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。」
「菊・紅葉など折り散らしたる」らしい同じ住人が、蜜柑の実を取られまいと厳重な柵をつくる。
暑い日の風鈴の音は涼を呼ぶけど、秋も深まると寒々しいから何とかしろ、と。
・・・・・自虐が過ぎる、か。