8月6日。
いつも何も思わず空を眺める。
そしていつもどこからか何らかの形で「広島に原爆が落とされた日」という文言が視界の隅を過り、声が聞こえてくる。
夜、Xで元自衛隊員という産廃業者の投稿が。
車を停めて黙祷をしていたら、同じく走っていた他のトラックが何事かと心配して次々と停車。
事情を説明したら一緒に黙祷をさせてくれ、と。みんな黙祷を始めた。
・・・という話。
知り合いらしい人が「話を聞いて『あ、そう』なんて離れられなかったんじゃないの。強面の顔見て」なんて茶化してたけど、やはり胸を打たれたんだろうなと思った、その口ぶりから。
はるかに年上のこちらはそんなことを考えもせず朝寝をしていたのに。
団塊の世代じゃなくても、神主学校の卒業生であって「國」というものについて少しは考えてきたつもりでも、やっぱり戦後教育を受けて育って来た我々は「國」を想う気持ちが随分と薄っぺらで、少々以上に歪んでいるような気がする。
以前に日記に書いた覚えがあるけれど、小泉元総理は、この日靖國神社に参拝したことがあって、その際は賽銭は自費、紋付き袴の正装で、だったそうだ。
そこだけ読めば「流石に一国の首相!第三国の批判など意に介していない」と大絶賛されるかもしれない。
しかし、昇殿参拝ではなく(当然玉串奉奠もなし)、賽銭を投げ出し、「二拝二拍手一拝」の正式参拝もせず、正殿に一礼して下がる、って・・・。そこに赤心はあるのか。誠を捧げることになったろうか。新聞にはそんなことは(些細なことだから?)一言も書かれていなかった。
中曽根元総理は更に酷い。何しろ、昇殿参拝の際、ボディーガードも元総理を囲むようにして昇殿(参拝はできない。ボディーガードだから)している。
誠心を明かしに昇殿するのに、この警戒ぶりは何だ。
「真心があれば、形など関係ない。要は中身だ」という痴れ者。これしか誠心を明かす方法がない、というのが正式参拝の作法だ。
己の都合・勝手な思いでその形を無視する。それのどこが誠心を明かすことになるのか。