村上義清の葛尾城跡の北にそびえる五里ケ峯(五里が峰)と、安藤(歌川)広重「六十余州名所図会」の『信濃更科田毎月鏡台山』で有名な鏡台山へ、両山の間にある笹平(沢山峠)からピストンで登りました。
五里ケ峯は、善光寺からの距離が五里ということでの命名ですが、昔は森村においては寥亮山(りょうりょうさん)といい、俗称は澤山といいました。
鏡台山(鏡臺山)は、小県においては張合、坂城町では大洞山(おおほらやま)、倉科では曲出(まがりだし)などと呼ばれました。
まずスタート地点の坂城町と千曲市森をつなぐ林道更埴坂城線の笹平登山口(沢山峠)へ。この笹平ですが、明治の『埴科郡誌』には、「鏡臺山の坂城の地積に属するものを大洞(オオホラ)と云う 大洞より山脈西に分かれ禿平、笹平を経て五里ケ峰となる」と書かれています。すると、現在笹平と呼んでいる所は、禿平(はげだいら)で、笹平はもっと西ということになります。確かに高圧線が越えているあたりは笹原があり、そこが本来の笹平なのかもしれません。
五里ケ峯へは、朝露に湿る林道を辿ります。途中バラに悩まされながらも55分で山頂に到着。時間も早いので「勘助道(勘助横手)」へ往復することにしました。「勘助道」は、山本勘助が村上義清の葛尾城を背後から攻略するために作らせたという軍用道路。その一部が五里ケ峯の北尾根に残っているのです。詳しいルポは、勘助道探索ルポ「葛尾城跡・五里ケ峯・鏡台山」トレッキングをご覧ください。
山頂から北へロープをつたって30mほど下り、さらにロープを頼りに数十m下りて尾根を進み、分岐を右に下ると「勘助道」です。新しい標識も立っていました。先日、鏡台山の山頂で出会った千曲市の職員の方に「勘助道」のことを話すと、なんでも「山と渓谷社」から問い合わせがあったそうです。五里ケ峯の勘助道に関しては、私のサイトと千曲市のサイトに載っているだけなので、私のルポを見たのかもしれません。私も千曲市在住の伯父から聞き、興味を持って探索に出て始めて発見したもので、市でもサイトに載せてはいるものの詳細を知る人がおらず、問い合わせにも困ったと言っていました。
真偽のほどは定かではありませんが、山中に突然現れるその道は、確かに不可思議です。
「勘助道(勘助横手)」については、MORI MORI KIDS(のトレッキングルポで、その消えてしまった経路を推理してみたいと思います。
往復50分ほどで五里ケ峯に戻ってゆっくり昼食、さて出ようかと思ったら、6、7歳ぐらいの男の子とお母さんとおぼしき女性が登ってきました。なんでも朝9時から3時間以上かかって山頂に着いたそうです。笹平からのお手軽登山の私は、ちょっと恥ずかしくなりました。だからというわけでもないのですが、鏡台山へも登ることにしました。
笹平に戻ると、熊避けグッズ完全装備の人がいました。花火、爆竹、癇癪玉鉄砲、ホイッスル、鈴たくさん、ラジオとそれは見事です。お願いして写真を撮らせてもらいました。私が鏡台山へ登ると言うと、鏡台山は熊がうじゃうじゃいるからと、自作の花火打上用発射管なるものを使って花火と爆竹で派手に熊を追い払ってくれました。それが功を奏したのかどうか、目の前を熊かも知れないものが横切り斜面を駆け下りていくのに後で遭遇することになるのですが…。
鏡台山へは、そんなハプニングもあってか35分で到着。登った山を別の山から見るのもいいものです。富士山は、相変わらず霞の中。冬を待たなければならないようです。
帰りに登ってくる男性とすれ違いましたが、熊らしきものとの遭遇を話すと、道端にマムシが寝ていたと話していました。熊もマムシも冬眠前で、なにかと忙しいようです。と呑気なことばかりも言っていられません。この日の午前中、近くの真田町の登山道で登山者が親子連れの熊と遭遇し、襲われて軽傷を負うという事件がありました。熊避けグッズ完全装備はともかく、鈴や笛は必須です。
色んな人や生物に出会った静かで賑やかな山行でしたが、埴科の低山も日毎錦秋に近づいてきました。
★五里ケ峯・鏡台山のトレッキングを、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。どうぞご覧ください。今回は、パノラマ写真が豊富です。
★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)、コケ、花、昆虫などのスーパーマクロ写真。滝、巨樹、森の写真、特殊な技法で作るパノラマ写真など。