長野県上田市の塩田平から別所温泉にかけて、同じく国宝の安楽寺八角三重塔やや前山寺の未完成の重文三重塔ななど鎌倉時代の古い古刹が数多く残っています。この扇状地に二つもの国宝の塔があるのは驚きです。この地は、741(天平13)年、聖武天皇が諸国に国分寺を建立し仏教を広めた一環で、上田には信濃国分寺を建立しました。それ以前の古墳時代には、さらに北の埴科の地(森・雨宮・土口)に古代科野国がありましたが、古墳時代が終わると経済・文化の中心は上田・塩田平地域に移りました。それが自然災害によるものなのか、疫病や政変などによるものなのか、詳しくはまだ分かっていないようです。
塩田平は平安時代までに新田開発が進み、鎌倉時代には米と麦の二毛作が行われ、相当に豊かだったようです。そして、北条氏の庇護を得てたくさんの寺院や塔が建立されました。今回訪れた「国宝大法寺三重塔」は、そんな鎌倉時代の栄華を残す名塔です。そのあまりの美しさに、誰もが思わず振り返ることから「見返りの塔」と呼ばれています。
塔は、大正9年の解体修理の際に発見された墨書により、鎌倉時代滅亡の年である1333年(正慶二年)に建立されたことが分かっています。塔のある大法寺は、大宝年間(701~704)藤原鎌足の子上恵が開基し大宝寺と称したといわれ、平安初期の大同年間(801~810)に坂上田村麻呂の祈願で僧義真(初代天台座主)により再興されたと伝わっています。
三重塔の構造は、天王寺から来た工匠により造営が行われたということで、当時の都の洗練された美しさを今に伝えています。三層の屋根は桧皮葺で、高さは18.56m。相輪を備え、天頂部には美しい水煙があります。初重の組物は二手先とし、裳階【もこし】(ひさしようなもの。あると四重の塔のように見える)がありません。裳階をつけずに初重内部を広くとるためだそうですが、そのため初層が大きく非常に安定感があり荘重、重厚な感じがあります。また、裳階がないためシルエットがシンプルで軽快感もあります。この造りは、他に奈良の興福寺三重塔(鎌倉時代初期)と石川県の那谷寺(なたでら)三重塔(江戸時代)だけといいます。内部には、金剛界大日如来坐像を安置しています。また、文化庁の調査の結果、国宝大法寺三重塔の一層内壁に壁画が描かれていたことが判明したそうです。これは興福寺の三重塔と同じです。
背後の山手に登ると塔の全景が見えます。そこは北側になるので陽が差すとシルエットになり、塔の形の美しさが最も堪能できるビューポイントだといえるでしょう。そこから塩田の里を塔越しに見ると、遠い鎌倉時代の栄華が蘇ってくるような気がします。
境内には根元から株立ちした大きな榧(カヤ)の巨樹があります。古名はカエで、転訛してカヤとなったそうです。榧の実は灰汁抜きして炒って食べられます。寺社に植えられているのも飢饉の備えという意味があったのかもしれません。また、碁盤や将棋盤といえば、榧材といわれるほど珍重されます。
「見返りの塔」は、春夏秋冬、晴雨風雪、昼夜朝夕いずれもそれぞれの美しさがあると思います。
★「見返りの塔」を、フォトドキュメントの手法で綴るレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にアップしました。ご覧ください。