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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

斎場山古墳(妻女山古墳)の謎(妻女山里山通信)

2010-01-03 | 歴史・地理・雑学
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 展望台や妻女山松代招魂社があり、国土地理院の地形図にも記載されている現在の妻女山(411m)は、地元の人も妻女山と呼んで久しいのですが、正しくは赤坂山といいます。暮れに鞍骨城跡に登った時に出会った清野の古老も、会話の中では赤坂山と呼んでいました。妻女山は、小字名です。

 では、本来の「妻女山」はというと展望台から左後方、南西に見える赤松の生える丸い頂なのです。但し、「妻女山」は江戸時代に作られた俗名で、本名は「斎場山」といい、山頂には二段の墳丘裾を持つ円墳があります。清野小学校百年誌では、「妻女山古墳」として下記のような説明があります。

 【妻女山古墳】
 土口将軍塚古墳東方五◯◯m余りの地、標高五一二mの山項にあって、山下の平地からの比高一五〇m余の高地にある円墳である。規模は径二五.六m、高さ五m余りの大円墳で、既に盗掘の簸にあったらしく墳墓の中心に南南東方向に、長さ五m、幅約二mの凹地ができていて、主体部の盗掘壙であることが明瞭である。墳丘裾は二段となり、周囲をめぐって設けられている。主体部の構造については不明であるが、盗掘壙の状況から察すると、縦長のもので、壁石の取りあげたものの散乱のないところから、粘土郭ではなかったかと考えられるが、詳細は不明という外ない。遺物については伝承もないので、これも全く不明である。
 里人伝えて「両眼塚」という。

 この斎場山山頂の標識には、「五量眼塚古墳」と書かれていますが、これは土口の俗称で、この山頂には他にも「御陵願塚」「竜顔塚」「両眼塚」「床几塚」「謙信台」などたくさんの俗称があります。「床几塚」と「謙信台」は、川中島合戦の折りに、この古墳の墳丘上に床几を据えて、海津城をはじめ武田方の動静を望見したと伝えられることからの呼び名です。古墳の西側には少しずつ小さくなって七基の塚が並んでいます。昔は48~49基の塚が確認されたようです。
 現在の妻女山にも、後記の土口村誌に「赤坂[祭場山北の一尾也]に在り。」とあるように、古墳があります。どちらも同じ「妻女山古墳」では混乱が生じます。そこでここは本来の山名から【斎場山古墳】と呼ぶのがいいだろうと思います。

 岩野村誌の記述。
【齋場山】祭祀壇凡四十九箇あり。皆円形なり。故に里俗伝に、此地は古昔国造(くにのみやつこ・こくぞう)の始まりより続き、埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧跡多く遺る所の地なりと、確乎たらず。

 また、土口村誌の記述。
【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり。岩野村、清野村、本村に分属す]の山脊より東に並び、峯頭の古塚[或云ふ是塚にあらず、祭壇中の大なるものにて、主として崇祭たる神の祭壇ならんと云ふ]に至り、又東に連なり、南の尾根上を登り又東に折れて折れて清野村分界に止む。凡四十八個の圓形塚如きもの有り、俗に旗塚と云ふ。又四十八塚と云ふ是上古縣主郡司の諸神をこう祭したる斎場祭壇にして、之を掘て或は祭器、古鏃(やじり)等を獲るものあれども、遠く之を望めば累々と相連なり、其かづ数えふ可く、相距る事整々として離れず。必ず一時に築く所にして、墳墓の漸次員を増たるものにあらざるなり。是齋場山の名ある所以なり。
【古塚】村の北の方にあり。一は前條将軍塚(土口将軍塚古墳)の束数十間、北山の峯頭にあり。其ち圓にして裾二段級有り。其形山陵志に所謂、十代内の山陵に似て小なり。然れば前條の墓より尚古く、殆ど太古の者と云うべき歟(や・か)[或云ふ是は墓にあらず、祭壇場ならんやと云へり]此外に三塚有り。一は祭場山長尾根の道の左に有り。一は赤坂[祭場山北の一尾也]に在り。是も亦将軍塚と称す。一は祭場山の東南隅に在り。此二塚今清野村に属す。(注:古塚とは斎場山古墳のこと)

 「斎場山」は、袷祭の場として後に「祭場山」とも書かれたことが分かります。『甲陽軍鑑』の「西条山」は完全な誤り。これは松代藩の古誌にも見られます。また、松代藩が改名命名したと思われる「妻女山」は最も非なりと否定していますが、これは本来の意味とかけ離れてしまい読みも「さいじょうざん」と「さいじょざん」では違ってしまうからでしょう。

 この古墳の成立年代は7世紀頃といわれています。ちょうど百済が660年に滅びて、それ以前から多くの渡来人がこの北信濃にやってきた時代と重なります。斎場山の谷を挟んだ南には堂平古墳群という渡来人のものともいわれる積み石塚古墳群がありますが、それとは様式が異なっています。積み石塚古墳は、ツングース系の騎馬民族、高句麗様式といわれています。現在の半島の人とは人種が異なります。高句麗は紀元前100年頃にできて、何度も古代の中国に攻められ、688年に唐と新羅に滅ぼされました。そのため多くの豪族が来訪し帰化しました。4世紀中頃から、当地の古墳からは馬具が大量に出土し始めます。それは高句麗の人々が持ち込んだ文化なのです。大きな歴史のうねりを感じさせます。

 701年に大宝律令が制定されて中央から派遣された国司や郡司が政治の中心になり、地方豪族の国造りは祭祀専門の名誉職のようなものになります。古墳築造禁止令(薄葬令646年)もあって、古墳は造られなくなりました。斎場山古墳の西に連なる、いわゆる旗塚は薄葬令以降の県司、郡司の墳墓ではないかと私は考えています。
 斎場山古墳は、三世紀の古代科野国の大王の墳墓・森将軍塚古墳から五世紀中葉の土口将軍塚古墳の後の、この地の大和王朝から国造に任命された豪族の最後の古墳かもしれません。あるいは、粘土郭かもしれないとありますが、薄葬令によって築造中止になったのかもしれません。また、展望台奥の赤坂山古墳についても土口村誌以外に記述がなく、これも謎に包まれています。

★川中島合戦と古代科野国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。

★古墳のルポは、【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいくつかあります。

★古墳の写真は、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】の「信州の低山2」をご覧ください。
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