翌日は雨上がり。まず里山保全と撮影の際に凹んだバンパーの修理を手伝ってもらいました。その後、松本の山辺(やまべ)に向かいました。中心街を通ると混むので、浅間温泉経由で。山辺は縄文時代の遺跡があり、平安時代の『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅうしょう)にでてくる山家の郷(やまんべのごう)にあたるところで、針塚古墳をはじめとして現在も多くの文化財が残っています。
旧山辺学校は明治6年(1873)、兎川(とせん)学校として発足、この校舎は、明治18年(1885)に建てられました。国宝に指定されている旧開智学校の校舎を見た村人が、おらほうにもこんな洋風建築の学校が欲しいと頑張って建てました。さすが教育県。県宝で、現在は歴史民俗資料館として利用されています。
(左)明治22年(1889)の完成記念の式典の記念写真。里山辺村・入山辺村の2村の生徒児童ですが、大勢ですね。(右)旧開智学校との比較なんですが、規模も違いますし、建築費用も10分の1ぐらいですし、無理に比較する必要もないかと。
●旧山辺学校(Wikipedia)
(左)当時の社会科の地理の教科書。(右)懐かしいヤマハのオルガン。1887年に国産第1号のオルガンを完成させました。母校の清野小学校にも何台もありました。当時でもうアンティークでしたが、その柔らかい音が好きでした。
(左)今の中学生ぐらいの年の生徒の作品。よく観察して丁寧に描き込んでいます。デッサンも正確ですね。いい絵です。その形と大きさから善光寺の山門で間違いないでしょう。(右)時代は戦時中。林集落から見る半地下の工場。軍需工場なのでしょう。敵に見つからないようにドーム型の屋根に土を乗せて草を生やしています。
(左)高度経済成長以前の旧家の部屋の再現。子供時代にリアルにこういう家に住んでいたので懐かしい。昔は結婚式も家でしたので、赤黒の漆塗りのお膳や漆塗りのお椀セットや酒器も50人分以上ありました。まるで旅館でした。身内は宴席のお取り持ちをするので、台所仕事は組の女性がします。共同体が生きていた時代でした。(右)唐箕(とうみ)。籾殻や麦殻、小豆や大豆、胡麻などの選別をする道具なんですが、私は帰郷してからこれを使っていました。最近は使っていませんが、まだあります。その旧家は、幕末に長く名主を勤めた逸作爺が建てたもので、その家族や子孫、そして私も11歳まで住んでいました。土間が12畳、台所が10畳、居間が10畳、その北の間が10畳、中の間が10畳、その北に5畳と6畳、座敷が12畳、奥座敷が10畳で北の間から奥座敷まで廊下がありました。11歳の頃築150年で土台が沈下し、松代i群発地震では、梁が抜けて震度5の時には、亡父があと5センチ抜けたら崩壊するという事態でした。このままでは重要文化財になってしまい面倒なことになると、父が新築しました(笑)。でもそのおかげで私は想い入れのない新しい家にいる必然性がなくなり、生来の放浪癖が芽生え、アンデスやアマゾンやらノルウェーやら世界に放浪するきっかけとなったというのは、誰も知りません(笑)。
(左)藍も作っていたのですね。藍染は今となってはむしろ新しい。インディゴブルーが美しい。(右)林城大城の北側では池で氷を作っていたそうです。馬が大活躍。
(左)入山辺厩所(まやどころ)の貧乏神送りで使われる藁馬(わらうま)。念仏を唱え、薄川(すすきがわ)へ運び焼き払います。(右)お船祭りのお船。里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社にて、毎年5月5日(御柱祭(干支でいう卯、酉)の年には4日)に行われる祭事です。「日本後紀」延暦18年12月甲戌条に、高句麗から渡来した信濃国人卦婁真老(外従六位下)は「須々岐」の姓を与えられたとあります。梶の木の紋が観られる様に、穂高神社のお船祭りと同様に、安曇族や諏訪社と深い関係があります。安曇族は、古事記によると、出雲族の長が北九州に遊びに行ってそのまま定着したとか。木彫は、宮彫りの名工、諏訪立川流の彫師が携わっています。
(左)小笠原氏城跡と松本平一円の城郭群。城だらけ。(右)針塚古墳。高句麗様式の積石塚古墳。大室古墳群や妻女山山系の積石塚古墳とほぼ同年代の古墳です。墳頂部の竪穴式石室内からは内行花文鏡(ないこうかもんきょう)をはじめ、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす 小刀)、ガラス小玉、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしゃ 糸をつむぐときに使用するはずみ車)、かこ(かねへんに交+具 例えば馬に鞍を取りつけるためのベルトを固定する金具)が発見されました。高句麗は、ツングース系の騎馬民族で、日本に馬産を伝えました。
(左)向かいにある真言宗智山派の寺院、恵日高照山兎川霊瑞寺へ。通称は兎川寺(とせんじ)。本尊は千手観音。約1300年前の飛鳥時代、聖徳太子により創建されたと伝わっています。(右)一文字納経。般若心経のいづれかの箇所一文字を石に書いて納めた後で、書いた経本の文字を黒く塗ります。私は色、息子は波と書いて納めました。「色」はこの世のすべての事物や現象。「波」は波動であり、宇宙全てのものはウィトゲンシュタインのいう様にスパーラル運動をし、渚の様に波打ちその表面で寄せては返し行き交うのです。「色即是空 空即是色」。パルス、フラクタル、相似律、食物連鎖、なんちゃらかんちゃら。宗教であれ哲学であれイデオロギーであれ思想であれ科学であれ信じないことです。常に疑う。信じた瞬間に思考が止まる。それは奴隷になること。専門家や学者が全てを知っているわけではありません、専門馬鹿に陥っていることもあるのです。とにかく自分で考える。限界を知りつつ限界を認めず探求する。それが生きるということではないでしょうか。野生動物は死の瞬間まで生きることを諦めません。
ボードリヤール、スーザン・ソンタグ、グスタフ・ルネ・ホッケ、R.D.レイン、JG.バラード、ホイジンガー、ライアル・ワトソン、ピカート、バックミンスター・フラー、アラン・ジュフロワ、G.バタイユ等々辺りをもう一回読み直してみようかなと思っている今日この頃です。
(左)小笠原の三段菱の中に兎が。(右)続いて須々岐水(すすきがわ)神社へ参拝。鳥居手前にお船の収納小屋がありました。
(左)薄川の金華橋を渡り、林城への林道を車で登ります。道は細く悪路。上に行くと右側が崖の様な急斜面なので要注意。本郭の手前に駐車スペースがあります。(右)城跡に咲くオカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン。
本郭にある案内図「林城跡とその周辺」。小城を合わせると非常に大きな山城です。
信濃国守護であった小笠原氏は、当初は井川館を拠点にしていたが、長禄3年(1459年)、府中小笠原家の小笠原清宗が林城を築城したとされる。後に清宗の曾孫小笠原長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ、小笠原氏を統一した後に拠点を移した。 天文19年(1550年)に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。 林大城(金華山城)と林小城(福山城)からなる。麓の大嵩崎集落には館町が形成されていた。(Wikipedia)
(左)林城の本郭。かなりの広さがあります。下山後は、上の図の左の林集落(旧筑摩県筑摩郡林村)へ向かいます。(右)林集落の真ん中を抜ける兎川寺鎌田線。この集落には驚きました。家々が凄く立派で、各家には二つか三つのなまこ壁の蔵があるのです。こんな集落は見たことがありません。途中で左折すると右手に岩波酒造が。近くには昔は名主をやっていたのではという様な立派な屋敷がありました。東西に伸びる町を立町といい屋敷割がされていて武家の町。南北の町を横町といい職人や商人の町だったそうです。ここが我が一族の祖といわれる林采女の生誕の地なのでしょうか。実は、我が家の祖先は林太郎左衛門といい真田昌幸に使えた500騎の騎馬隊を束ねる武将でした。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。それがここかは不明です。そして、そのうちのひとり、林采女が真田の松代に移り住み帰農したと伝わっています。
廣澤寺山門前のスペースに駐車して、千鹿頭神社(ちかとうじんじゃ)へ向かいます。廣澤寺の下の田んぼを「兎田」と言います。小笠原清宗の三男、林藤助光政が兎を狩って、徳川有親親子に御馳走したと伝わります。その恩を忘れずにと徳川家では正月にうさぎの吸い物を食べる習わしがあるとか。
(左)千鹿頭神社の林側の鳥居。反対側には神田の鳥居があります。(右)神田側は高遠藩、林側は松本藩。よって本殿も二つあります。古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社といわれています。この地の産土神(うぶすながみ)です。祭神は、内県命または千鹿頭神で、大国主命の御子で諏訪大社の祭神である建御名方命の御子神といわれています。
守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。 千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。
●千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)(Wikipedia)
(左)左の本殿には「林」の文字が。(右)本殿後背にある後宮。かつては服神社(はてがみしゃ)と呼ばれ、先の宮と同等だったといわれます。これも林と神田の二社があります。(林古城会他)
(左)諏訪系の神社なので御柱があります。諏訪直系の神社なのに、松代の産土神の皆神神社と会津比売神社に、御柱がないのが不思議です。(右)遅い昼は、そばの里 六助へ。私は蕎麦150グラムの天ざる小を。天ぷらがつくのでこれぐらいで満足です。海老が味が濃くて美味。平日のランチは超お得。大きな海老天が別盛りでつく鍋焼きうどん(冬期限定)もおすすめ。気取って頂く蕎麦ではありませんが、味もコスパも最高です。信州の蕎麦屋は、東京のようにザルの膨らんだ方を上に向けて盛る様なことはしません。なので、うかつに大盛りを頼むととんでもない量の蕎麦が来ることがあります。ご注意を。満足して帰路につきましたが、豪雨であちこちに被害が出て通行止めが各所にあります。必ず情報の確認を。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
旧山辺学校は明治6年(1873)、兎川(とせん)学校として発足、この校舎は、明治18年(1885)に建てられました。国宝に指定されている旧開智学校の校舎を見た村人が、おらほうにもこんな洋風建築の学校が欲しいと頑張って建てました。さすが教育県。県宝で、現在は歴史民俗資料館として利用されています。
(左)明治22年(1889)の完成記念の式典の記念写真。里山辺村・入山辺村の2村の生徒児童ですが、大勢ですね。(右)旧開智学校との比較なんですが、規模も違いますし、建築費用も10分の1ぐらいですし、無理に比較する必要もないかと。
●旧山辺学校(Wikipedia)
(左)当時の社会科の地理の教科書。(右)懐かしいヤマハのオルガン。1887年に国産第1号のオルガンを完成させました。母校の清野小学校にも何台もありました。当時でもうアンティークでしたが、その柔らかい音が好きでした。
(左)今の中学生ぐらいの年の生徒の作品。よく観察して丁寧に描き込んでいます。デッサンも正確ですね。いい絵です。その形と大きさから善光寺の山門で間違いないでしょう。(右)時代は戦時中。林集落から見る半地下の工場。軍需工場なのでしょう。敵に見つからないようにドーム型の屋根に土を乗せて草を生やしています。
(左)高度経済成長以前の旧家の部屋の再現。子供時代にリアルにこういう家に住んでいたので懐かしい。昔は結婚式も家でしたので、赤黒の漆塗りのお膳や漆塗りのお椀セットや酒器も50人分以上ありました。まるで旅館でした。身内は宴席のお取り持ちをするので、台所仕事は組の女性がします。共同体が生きていた時代でした。(右)唐箕(とうみ)。籾殻や麦殻、小豆や大豆、胡麻などの選別をする道具なんですが、私は帰郷してからこれを使っていました。最近は使っていませんが、まだあります。その旧家は、幕末に長く名主を勤めた逸作爺が建てたもので、その家族や子孫、そして私も11歳まで住んでいました。土間が12畳、台所が10畳、居間が10畳、その北の間が10畳、中の間が10畳、その北に5畳と6畳、座敷が12畳、奥座敷が10畳で北の間から奥座敷まで廊下がありました。11歳の頃築150年で土台が沈下し、松代i群発地震では、梁が抜けて震度5の時には、亡父があと5センチ抜けたら崩壊するという事態でした。このままでは重要文化財になってしまい面倒なことになると、父が新築しました(笑)。でもそのおかげで私は想い入れのない新しい家にいる必然性がなくなり、生来の放浪癖が芽生え、アンデスやアマゾンやらノルウェーやら世界に放浪するきっかけとなったというのは、誰も知りません(笑)。
(左)藍も作っていたのですね。藍染は今となってはむしろ新しい。インディゴブルーが美しい。(右)林城大城の北側では池で氷を作っていたそうです。馬が大活躍。
(左)入山辺厩所(まやどころ)の貧乏神送りで使われる藁馬(わらうま)。念仏を唱え、薄川(すすきがわ)へ運び焼き払います。(右)お船祭りのお船。里山辺の須々岐水(すすきがわ)神社にて、毎年5月5日(御柱祭(干支でいう卯、酉)の年には4日)に行われる祭事です。「日本後紀」延暦18年12月甲戌条に、高句麗から渡来した信濃国人卦婁真老(外従六位下)は「須々岐」の姓を与えられたとあります。梶の木の紋が観られる様に、穂高神社のお船祭りと同様に、安曇族や諏訪社と深い関係があります。安曇族は、古事記によると、出雲族の長が北九州に遊びに行ってそのまま定着したとか。木彫は、宮彫りの名工、諏訪立川流の彫師が携わっています。
(左)小笠原氏城跡と松本平一円の城郭群。城だらけ。(右)針塚古墳。高句麗様式の積石塚古墳。大室古墳群や妻女山山系の積石塚古墳とほぼ同年代の古墳です。墳頂部の竪穴式石室内からは内行花文鏡(ないこうかもんきょう)をはじめ、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす 小刀)、ガラス小玉、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしゃ 糸をつむぐときに使用するはずみ車)、かこ(かねへんに交+具 例えば馬に鞍を取りつけるためのベルトを固定する金具)が発見されました。高句麗は、ツングース系の騎馬民族で、日本に馬産を伝えました。
(左)向かいにある真言宗智山派の寺院、恵日高照山兎川霊瑞寺へ。通称は兎川寺(とせんじ)。本尊は千手観音。約1300年前の飛鳥時代、聖徳太子により創建されたと伝わっています。(右)一文字納経。般若心経のいづれかの箇所一文字を石に書いて納めた後で、書いた経本の文字を黒く塗ります。私は色、息子は波と書いて納めました。「色」はこの世のすべての事物や現象。「波」は波動であり、宇宙全てのものはウィトゲンシュタインのいう様にスパーラル運動をし、渚の様に波打ちその表面で寄せては返し行き交うのです。「色即是空 空即是色」。パルス、フラクタル、相似律、食物連鎖、なんちゃらかんちゃら。宗教であれ哲学であれイデオロギーであれ思想であれ科学であれ信じないことです。常に疑う。信じた瞬間に思考が止まる。それは奴隷になること。専門家や学者が全てを知っているわけではありません、専門馬鹿に陥っていることもあるのです。とにかく自分で考える。限界を知りつつ限界を認めず探求する。それが生きるということではないでしょうか。野生動物は死の瞬間まで生きることを諦めません。
ボードリヤール、スーザン・ソンタグ、グスタフ・ルネ・ホッケ、R.D.レイン、JG.バラード、ホイジンガー、ライアル・ワトソン、ピカート、バックミンスター・フラー、アラン・ジュフロワ、G.バタイユ等々辺りをもう一回読み直してみようかなと思っている今日この頃です。
(左)小笠原の三段菱の中に兎が。(右)続いて須々岐水(すすきがわ)神社へ参拝。鳥居手前にお船の収納小屋がありました。
(左)薄川の金華橋を渡り、林城への林道を車で登ります。道は細く悪路。上に行くと右側が崖の様な急斜面なので要注意。本郭の手前に駐車スペースがあります。(右)城跡に咲くオカトラノオで吸蜜するミドリヒョウモン。
本郭にある案内図「林城跡とその周辺」。小城を合わせると非常に大きな山城です。
信濃国守護であった小笠原氏は、当初は井川館を拠点にしていたが、長禄3年(1459年)、府中小笠原家の小笠原清宗が林城を築城したとされる。後に清宗の曾孫小笠原長棟が同族の松尾小笠原氏を屈服させ、小笠原氏を統一した後に拠点を移した。 天文19年(1550年)に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。 林大城(金華山城)と林小城(福山城)からなる。麓の大嵩崎集落には館町が形成されていた。(Wikipedia)
(左)林城の本郭。かなりの広さがあります。下山後は、上の図の左の林集落(旧筑摩県筑摩郡林村)へ向かいます。(右)林集落の真ん中を抜ける兎川寺鎌田線。この集落には驚きました。家々が凄く立派で、各家には二つか三つのなまこ壁の蔵があるのです。こんな集落は見たことがありません。途中で左折すると右手に岩波酒造が。近くには昔は名主をやっていたのではという様な立派な屋敷がありました。東西に伸びる町を立町といい屋敷割がされていて武家の町。南北の町を横町といい職人や商人の町だったそうです。ここが我が一族の祖といわれる林采女の生誕の地なのでしょうか。実は、我が家の祖先は林太郎左衛門といい真田昌幸に使えた500騎の騎馬隊を束ねる武将でした。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。それがここかは不明です。そして、そのうちのひとり、林采女が真田の松代に移り住み帰農したと伝わっています。
廣澤寺山門前のスペースに駐車して、千鹿頭神社(ちかとうじんじゃ)へ向かいます。廣澤寺の下の田んぼを「兎田」と言います。小笠原清宗の三男、林藤助光政が兎を狩って、徳川有親親子に御馳走したと伝わります。その恩を忘れずにと徳川家では正月にうさぎの吸い物を食べる習わしがあるとか。
(左)千鹿頭神社の林側の鳥居。反対側には神田の鳥居があります。(右)神田側は高遠藩、林側は松本藩。よって本殿も二つあります。古代からの洩矢(もれや)の神の系譜で「千鹿頭大神」を祀り、諏訪信仰と深いつながりのある神社といわれています。この地の産土神(うぶすながみ)です。祭神は、内県命または千鹿頭神で、大国主命の御子で諏訪大社の祭神である建御名方命の御子神といわれています。
守宅神、生まれて霊異幹力あり、父に代りて弓矢を負ひ、大神に従ひ遊猟し、千の鹿を得る。一男有りて、これを名つけて千鹿頭神と曰ふ。 千鹿頭神、継ぎて祭政を主(つかさど)る。
●千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)(Wikipedia)
(左)左の本殿には「林」の文字が。(右)本殿後背にある後宮。かつては服神社(はてがみしゃ)と呼ばれ、先の宮と同等だったといわれます。これも林と神田の二社があります。(林古城会他)
(左)諏訪系の神社なので御柱があります。諏訪直系の神社なのに、松代の産土神の皆神神社と会津比売神社に、御柱がないのが不思議です。(右)遅い昼は、そばの里 六助へ。私は蕎麦150グラムの天ざる小を。天ぷらがつくのでこれぐらいで満足です。海老が味が濃くて美味。平日のランチは超お得。大きな海老天が別盛りでつく鍋焼きうどん(冬期限定)もおすすめ。気取って頂く蕎麦ではありませんが、味もコスパも最高です。信州の蕎麦屋は、東京のようにザルの膨らんだ方を上に向けて盛る様なことはしません。なので、うかつに大盛りを頼むととんでもない量の蕎麦が来ることがあります。ご注意を。満足して帰路につきましたが、豪雨であちこちに被害が出て通行止めが各所にあります。必ず情報の確認を。
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。