今年の正月は、雪が少ない日が続き、新年から雪かきに謀殺されることなく、穏やかに過ぎました。2月末に完成間近のAC長野パルセイロのホームスタジアムは、2日から既に工事が再開されていました。こちらで、その完成予想図(pdf)が。こちらで工事の進捗状況が写真入りで分かります。基本サッカー専用(ラグビー、アメフトも)なので、スタンドとピッチの距離が近く、選手の声や体がぶつかる音も聞こえるでしょう。5月28日(木)には、なでしこジャパンの国債親善試合も決まりました。長野は、冬季オリンピックで国際的知名度も高いので、国際試合の招致も可能でしょう。拡張性も考慮ということなので、将来はフェイエノールト・スタディオンの様に、三階席もできるかもしれません。エコスタジアムに加えて、授乳室、喫煙室、座敷席、キッズルーム、車椅子席と、なかなか設備も充実しています。
左は、長野市のサイトからお借りした完成予想図。上のpdfで見ていただくと、より鮮明にイメージできるでしょう。試合当日は、長野駅東口と篠ノ井駅東口からシャトルバスが出るようです。写真中。外観はほぼ完成し、内装や椅子の取付工事を行っていました。写真右は、北側の借景に松代東条の奇妙山を頂いたスタジアム。東方から見ると北アルプスが、南方から見ると戸隠連峰が、北方から見ると妻女山がと、背景に信州の山々がそびえる非常に眺めのいいスタジアムです。
妻女山展望台から見たスタジアム。南面のアウェイ席が一階で、光や風が入る構造。スタジアムの左は、体育館とプール。その左は、冬期長野オリンピックの開閉会式が行われた野球場です。善光寺平の南端に位置します。手前には千曲川、奥には飯縄山がそびえています。驚くほど雪の少ない正月ですが、埋め合わせるように昨年のような豪雪がないことを祈るのみです。
古くは首都東京の奥座敷や善光寺参りの精進落としの湯と言われた戸倉上山田温泉の「国楽館 戸倉ホテル」での新年会。赤松と破風造りの玄関が立派ですが、内装は昭和レトロの鄙びた風情がたっぷりと漂います。温泉は加温していますが源泉で、非常にいいお湯です。料理は、豪華ではありませんが、地元の食材を中心に品数は多すぎるほど。特に鯉こくは美味い。実は高校の同級生がオーナーで、もう何十年も通っているのに、今回初めて地下に卓球室があるのを発見しました。なんという迷宮の宿。
近代的な宿で、豪華な小洒落た料理を求める人には向いていません。ペット同伴も大丈夫。窓からの景色はありませんが、すぐ裏手が千曲川なので、朝夕に散歩に出るのもいいでしょう。春は森のあんずの里へ花見に。初夏は冠着山(姨捨山)登山の基地に。夏は花火大会や鮎釣り。秋は姨捨の棚田で観月を。冬は姨捨駅からの夜景をと、色々な楽しみ方があります。詳細や口コミは、「じゃらん」や「トリップアドバイザー」などで。
翌朝は、4~5センチの積雪がありましたが、晴れてすぐに大方の雪は溶けました。川中島の戦いの古戦場・八幡原(はちまんぱら)へ。第四次川中島合戦で、武田信玄が本陣を構えた所といわれています。実際に戦が行われたのは、これより2~3キロ西の上記のサッカー場がある南長野運動公園辺りで、近くには合戦場という地名も残っています。八幡原は、現在は街の中にある感じですが、40年前は周りじゅうが水田で、松林の中に寂しく神社があるだけでした。ここには首塚というものがあり、戦後、海津城将高坂弾正が、敵味方を問わず死骸を集め手厚く葬ったといわれています。明治41年に県道を作る際に塚を壊したら、鎖帷子や刀の一部が出たそうです。
有名な川中島の戦いというのは、普通第四次を指しますが、第一級史料がなく江戸時代のバイアスがたくさん掛かっています。川中島合戦の逸話のほとんどは、江戸時代後期に川中島の人が記した『甲越信戦録』において初出する話で、面白い物語ですが、史実とは程遠いものです。有名な武田別働隊の「啄木鳥戦法」もそのひとつ。
そして、その筆頭が、この上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの話でしょう。俗に「三太刀七太刀之跡」といって石碑もあります。石像の馬は、人物と比べるとそう大きくないので、割りと忠実に再現されてはいますが・・。所謂、英雄史観が生んだ物語のひとつでしょう。
当時の馬は木曽馬で、大河ドラマの様なサラブレッドではなく、肩までの高さが130~140センチのポニーサイズ。では非力かというとさにあらず。甲冑を着た武者を乗せて時速40キロぐらいで走れたそうです。それは、「日本在来種の木曽馬を用いての大鎧馬上武芸」という動画を見ても分かります。体重は、350~420キログラム。木曽馬は、山岳地帯の農耕馬ですから力はあるわけです。蹄が外向きなので、山の斜面も苦にすることなく登れるそうです。
木曽馬は、2、3世紀に蒙古草原馬が、朝鮮半島経由で入ってきた様です。大室古墳群近くには牧島とか、信州には牧のつく地名がたくさんありますが、いずれも古代の馬の生産地だったのでしょう。古墳からは、馬具も出土しています。
八幡原の駐車場からは、上杉謙信の布陣した妻女山(斎場山)も見えます。
◉【必見】マスコミ報じず!アメリカ政府が公表した放射性ヨウ素の汚染地図が凄まじい件!東京の千代田区で5154Bq/kg!
◉アメリカ政府が発表したストロンチウムの汚染地図がヤバイ!神奈川県を含めて関東各地で放射性ストロンチウムを検出!
今年は、2016年問題の前年。昨年以上に厳しい現実を突きつけられるのは間違いない。情報弱者にならず、安全性バイアスにかかるべからず。
★妻女山(斎場山)の歴史については、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」などリンク記事も豊富です。
このブログでもページの右上で「妻女山」や「斎場山」、「川中島合戦」、「科野」などでブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。主に古代科野国と戦国時代、幕末から明治維新にかけての記事がご覧頂けます。川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。関連記事のリンク集も。
左は、長野市のサイトからお借りした完成予想図。上のpdfで見ていただくと、より鮮明にイメージできるでしょう。試合当日は、長野駅東口と篠ノ井駅東口からシャトルバスが出るようです。写真中。外観はほぼ完成し、内装や椅子の取付工事を行っていました。写真右は、北側の借景に松代東条の奇妙山を頂いたスタジアム。東方から見ると北アルプスが、南方から見ると戸隠連峰が、北方から見ると妻女山がと、背景に信州の山々がそびえる非常に眺めのいいスタジアムです。
妻女山展望台から見たスタジアム。南面のアウェイ席が一階で、光や風が入る構造。スタジアムの左は、体育館とプール。その左は、冬期長野オリンピックの開閉会式が行われた野球場です。善光寺平の南端に位置します。手前には千曲川、奥には飯縄山がそびえています。驚くほど雪の少ない正月ですが、埋め合わせるように昨年のような豪雪がないことを祈るのみです。
古くは首都東京の奥座敷や善光寺参りの精進落としの湯と言われた戸倉上山田温泉の「国楽館 戸倉ホテル」での新年会。赤松と破風造りの玄関が立派ですが、内装は昭和レトロの鄙びた風情がたっぷりと漂います。温泉は加温していますが源泉で、非常にいいお湯です。料理は、豪華ではありませんが、地元の食材を中心に品数は多すぎるほど。特に鯉こくは美味い。実は高校の同級生がオーナーで、もう何十年も通っているのに、今回初めて地下に卓球室があるのを発見しました。なんという迷宮の宿。
近代的な宿で、豪華な小洒落た料理を求める人には向いていません。ペット同伴も大丈夫。窓からの景色はありませんが、すぐ裏手が千曲川なので、朝夕に散歩に出るのもいいでしょう。春は森のあんずの里へ花見に。初夏は冠着山(姨捨山)登山の基地に。夏は花火大会や鮎釣り。秋は姨捨の棚田で観月を。冬は姨捨駅からの夜景をと、色々な楽しみ方があります。詳細や口コミは、「じゃらん」や「トリップアドバイザー」などで。
翌朝は、4~5センチの積雪がありましたが、晴れてすぐに大方の雪は溶けました。川中島の戦いの古戦場・八幡原(はちまんぱら)へ。第四次川中島合戦で、武田信玄が本陣を構えた所といわれています。実際に戦が行われたのは、これより2~3キロ西の上記のサッカー場がある南長野運動公園辺りで、近くには合戦場という地名も残っています。八幡原は、現在は街の中にある感じですが、40年前は周りじゅうが水田で、松林の中に寂しく神社があるだけでした。ここには首塚というものがあり、戦後、海津城将高坂弾正が、敵味方を問わず死骸を集め手厚く葬ったといわれています。明治41年に県道を作る際に塚を壊したら、鎖帷子や刀の一部が出たそうです。
有名な川中島の戦いというのは、普通第四次を指しますが、第一級史料がなく江戸時代のバイアスがたくさん掛かっています。川中島合戦の逸話のほとんどは、江戸時代後期に川中島の人が記した『甲越信戦録』において初出する話で、面白い物語ですが、史実とは程遠いものです。有名な武田別働隊の「啄木鳥戦法」もそのひとつ。
そして、その筆頭が、この上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの話でしょう。俗に「三太刀七太刀之跡」といって石碑もあります。石像の馬は、人物と比べるとそう大きくないので、割りと忠実に再現されてはいますが・・。所謂、英雄史観が生んだ物語のひとつでしょう。
当時の馬は木曽馬で、大河ドラマの様なサラブレッドではなく、肩までの高さが130~140センチのポニーサイズ。では非力かというとさにあらず。甲冑を着た武者を乗せて時速40キロぐらいで走れたそうです。それは、「日本在来種の木曽馬を用いての大鎧馬上武芸」という動画を見ても分かります。体重は、350~420キログラム。木曽馬は、山岳地帯の農耕馬ですから力はあるわけです。蹄が外向きなので、山の斜面も苦にすることなく登れるそうです。
木曽馬は、2、3世紀に蒙古草原馬が、朝鮮半島経由で入ってきた様です。大室古墳群近くには牧島とか、信州には牧のつく地名がたくさんありますが、いずれも古代の馬の生産地だったのでしょう。古墳からは、馬具も出土しています。
八幡原の駐車場からは、上杉謙信の布陣した妻女山(斎場山)も見えます。
◉【必見】マスコミ報じず!アメリカ政府が公表した放射性ヨウ素の汚染地図が凄まじい件!東京の千代田区で5154Bq/kg!
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今年は、2016年問題の前年。昨年以上に厳しい現実を突きつけられるのは間違いない。情報弱者にならず、安全性バイアスにかかるべからず。
★妻女山(斎場山)の歴史については、「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」。をご覧ください。「きつつき戦法とは」、「武田別動隊経路図」などリンク記事も豊富です。
このブログでもページの右上で「妻女山」や「斎場山」、「川中島合戦」、「科野」などでブログ内検索していただくとたくさん記事がご覧いただけます。主に古代科野国と戦国時代、幕末から明治維新にかけての記事がご覧頂けます。川中島合戦と山名についての考察。斎場山と妻女山まとめ。関連記事のリンク集も。