9日に予報より多くの雨が降りました。先週、大量のムキタケを採りましたが、小さなものはすべて残してきました。それが採り時だろうと登りました。登り始めは10度でしたが、下山時は16度。麓は18度になったようです。ただ風は強めで、枯れ葉が舞っていました。長野市は、高原の紅葉が終わり里山の紅葉が真っ盛りです。運転していても周り中の美しい紅葉が気になってよそ見運転をしないよう注意しています。
やっとムキタケの群生する倒木へ。大きくなっています。雨を含んで粘るものもあります。なるべくゴミを持ち帰りたくないので、ハサミで切り取っていきます。熊の心配は季節柄ありませんが、ニホンカモシカの通り道なので、時々周囲を見ます。視線を感じて見上げると、そこにニホンカモシカということもありました。ニホンカモシカは襲ったりしません。ただ非常に好奇心が強いので凝視されます。
大きな株です。クヌギの枯れ葉が舞い落ちています。針のような落葉松の枯れ葉が意外と面倒なのですが、すべて取り除きます。帰ってからの処理が簡単になります。
両方ともムキタケなのです。これだけ色が違いますが同種です。オリーブグリーンのものもあります。有毒のツキヨタケが似ているのですが、標高1000m以上のキノコなので、ここでは心配無用です。ムキタケに特徴的な濃い味はありませんが、そのため和洋中華色々な料理に使えます。ヌメリもあるので煮込み料理や鍋に最適です。
ヒラタケもまだありますが、これは縁が焦げ茶色で老菌に近いので、小さなものを採取しました。醤油バター炒めとかベーコンとパスタとかグラタンとかにも。小さなキノコバエが見えますが、彼らがもたらす線虫で白いコブが傘の裏にできることがあります。無毒ですが、気になるなら爪で削ぎ落とすと簡単に取れます。今回は、40センチのボウルがいっぱいになるぐらい採れました。毎日キノコ三昧です。来月の妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会に持っていって振る舞います。今回は、煮込みうどん、豚足と地大根の五香粉中華煮、鶏と春菊、薩摩芋のクリームシチュー、モツ煮込みなどにムキタケを使いました。どれも馬鹿旨でした。
傾斜が40〜45度の急斜面。ここを登らないと帰れないというと普通採取は諦めるでしょうね。迷ったら確実に遭難しますし。今年は倒木が多いです。里山保全は手間隙かかりますが、やらないとあっという間に荒廃します。何百年もの間、人が手を入れて維持してきたのが里山です。その重要さを満開の貝母を紹介する時にも必ずお話しています。
やっと陣場平に戻りました。我々が保護活動をしている貝母(編笠百合)は、消えています。来年の3月に雪の下から芽を出します。満開になるのは4月の15日前後。誰もが感激する満開の様子は、毎年の4月のアーカーイブから記事をご覧ください。日本の里山でこれだけの群生地が見られるのはここだけです。帰化植物の除去や、落枝や倒木の処理、球根の移植作業などを妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーとしています。開花期にはガイドもします。コロナで中止状態ですが、以前は合同ハイキングのインタープリターもしました。
堂平大塚古墳のあるログハウスへ。落葉松の黄葉の向こうに聖山。聖湖は、全国的に有名なへらぶな釣りのメッカです。
北アルプスの仁科三山も。左に爺ヶ岳、右に鹿島槍ヶ岳。淹れてきたコーヒーでしばしまったりと休憩です。
小紫の実。有毒ではないのですが、鳥はあまり食べませんね。人が食べても美味しくはありません。綺麗なので生花に使うといいですね。
今は亡き山仲間のKさんが植えたイロハモミジも見事に色づきました。紅葉は逆光で撮ると映えますね。
ログハウスの日溜まりにはたくさんのアキアカネが舞っていました。あちこちの池で産卵シーンが見られますが、我が家の雨の水たまりに産卵するのは可愛そうです。数日で干上がってしまいますから。教えてあげる術はありません。
(左)コバノガマズミの紅葉。ガマズミの真っ赤な実は、ルビー色の抗酸化作用のある綺麗なお酒ができるのですが、今年も作りそこなってしまいました。(右)クヌギの落ち葉の中にダンコウバイの黄色い落ち葉。
斎場山(旧妻女山)へ。山頂は古代科野国の古墳です。五竜眼塚古墳の記述もありますが、山名から斎場山古墳と呼ぶべきでしょう。五竜眼は、この後出てきますが、この西方にある平地の名称です。
古墳の最上部。円墳で山頂は丸く平らです。川中島の戦いの時に、最初に上杉謙信が本陣とした場所として伝わっています。盾を敷き、陣幕で囲み、鼓を叩いて舞を舞ったという伝説があります。武田軍が全軍を海津城に入れた後は、後述の陣場平に七棟の陣城を建てて本陣としたと伝わっています。甲陽軍鑑の編者、小幡景憲がその絵を描いています。東北大学の狩野文庫に収蔵されています。当ブログでは、許可を得て掲載しています。川中島の戦いでブログ内検索して下さい。
巨大なイノシシのヌタ場。冬の猟期に追われたイノシシが、氷を割ってここで火照った体を冷やすこともあります。倒木の穴をイノシシが鼻で掘ってここまで大きくしたのです。
(左)イノシシが泥をこすりつけた木。これをたどっていくと彼らの塒(ねぐら)にたどり着くかも。(右)御陵願平。転訛して五竜眼平とも。よく見ると二段になっています。里俗伝では、往古ここに会津比売神社があったとか。上杉謙信が庇護していたために、武田信玄に焼かれ、その後麓に隠れるように再建されたとか。現在は、上信越自動車道の薬師山トンネルの松代側の入り口の裏にひっそりと鎮座します。祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)は、大国主命のひ孫で、夫は崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたつのみこと)といわれています。
その会津比売命を祀る会津比売神社。諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。
上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。春秋の祭には神楽が奉納されます。
この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。
その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。
会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。
会津比売神社御由緒で、その夫と伝わる建五百建命の前方後円墳、森将軍塚古墳です。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いています。
森将軍塚古墳へは、麓の千曲市の科野の里ふれあい公園からシャトルバスが出ていますが、徒歩でも20分ぐらいで登れます。また公園内には古墳館がありおすすめです。駐車場を挟んで反対側には、長野県立歴史博物館があり、現在は「全盛期の縄文土器」を展示中。非常に面白いレベルの高い展示です。
●「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):11月23日まで開催中!
●古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
やっとムキタケの群生する倒木へ。大きくなっています。雨を含んで粘るものもあります。なるべくゴミを持ち帰りたくないので、ハサミで切り取っていきます。熊の心配は季節柄ありませんが、ニホンカモシカの通り道なので、時々周囲を見ます。視線を感じて見上げると、そこにニホンカモシカということもありました。ニホンカモシカは襲ったりしません。ただ非常に好奇心が強いので凝視されます。
大きな株です。クヌギの枯れ葉が舞い落ちています。針のような落葉松の枯れ葉が意外と面倒なのですが、すべて取り除きます。帰ってからの処理が簡単になります。
両方ともムキタケなのです。これだけ色が違いますが同種です。オリーブグリーンのものもあります。有毒のツキヨタケが似ているのですが、標高1000m以上のキノコなので、ここでは心配無用です。ムキタケに特徴的な濃い味はありませんが、そのため和洋中華色々な料理に使えます。ヌメリもあるので煮込み料理や鍋に最適です。
ヒラタケもまだありますが、これは縁が焦げ茶色で老菌に近いので、小さなものを採取しました。醤油バター炒めとかベーコンとパスタとかグラタンとかにも。小さなキノコバエが見えますが、彼らがもたらす線虫で白いコブが傘の裏にできることがあります。無毒ですが、気になるなら爪で削ぎ落とすと簡単に取れます。今回は、40センチのボウルがいっぱいになるぐらい採れました。毎日キノコ三昧です。来月の妻女山里山デザイン・プロジェクトの納会に持っていって振る舞います。今回は、煮込みうどん、豚足と地大根の五香粉中華煮、鶏と春菊、薩摩芋のクリームシチュー、モツ煮込みなどにムキタケを使いました。どれも馬鹿旨でした。
傾斜が40〜45度の急斜面。ここを登らないと帰れないというと普通採取は諦めるでしょうね。迷ったら確実に遭難しますし。今年は倒木が多いです。里山保全は手間隙かかりますが、やらないとあっという間に荒廃します。何百年もの間、人が手を入れて維持してきたのが里山です。その重要さを満開の貝母を紹介する時にも必ずお話しています。
やっと陣場平に戻りました。我々が保護活動をしている貝母(編笠百合)は、消えています。来年の3月に雪の下から芽を出します。満開になるのは4月の15日前後。誰もが感激する満開の様子は、毎年の4月のアーカーイブから記事をご覧ください。日本の里山でこれだけの群生地が見られるのはここだけです。帰化植物の除去や、落枝や倒木の処理、球根の移植作業などを妻女山里山デザイン・プロジェクトのメンバーとしています。開花期にはガイドもします。コロナで中止状態ですが、以前は合同ハイキングのインタープリターもしました。
堂平大塚古墳のあるログハウスへ。落葉松の黄葉の向こうに聖山。聖湖は、全国的に有名なへらぶな釣りのメッカです。
北アルプスの仁科三山も。左に爺ヶ岳、右に鹿島槍ヶ岳。淹れてきたコーヒーでしばしまったりと休憩です。
小紫の実。有毒ではないのですが、鳥はあまり食べませんね。人が食べても美味しくはありません。綺麗なので生花に使うといいですね。
今は亡き山仲間のKさんが植えたイロハモミジも見事に色づきました。紅葉は逆光で撮ると映えますね。
ログハウスの日溜まりにはたくさんのアキアカネが舞っていました。あちこちの池で産卵シーンが見られますが、我が家の雨の水たまりに産卵するのは可愛そうです。数日で干上がってしまいますから。教えてあげる術はありません。
(左)コバノガマズミの紅葉。ガマズミの真っ赤な実は、ルビー色の抗酸化作用のある綺麗なお酒ができるのですが、今年も作りそこなってしまいました。(右)クヌギの落ち葉の中にダンコウバイの黄色い落ち葉。
斎場山(旧妻女山)へ。山頂は古代科野国の古墳です。五竜眼塚古墳の記述もありますが、山名から斎場山古墳と呼ぶべきでしょう。五竜眼は、この後出てきますが、この西方にある平地の名称です。
古墳の最上部。円墳で山頂は丸く平らです。川中島の戦いの時に、最初に上杉謙信が本陣とした場所として伝わっています。盾を敷き、陣幕で囲み、鼓を叩いて舞を舞ったという伝説があります。武田軍が全軍を海津城に入れた後は、後述の陣場平に七棟の陣城を建てて本陣としたと伝わっています。甲陽軍鑑の編者、小幡景憲がその絵を描いています。東北大学の狩野文庫に収蔵されています。当ブログでは、許可を得て掲載しています。川中島の戦いでブログ内検索して下さい。
巨大なイノシシのヌタ場。冬の猟期に追われたイノシシが、氷を割ってここで火照った体を冷やすこともあります。倒木の穴をイノシシが鼻で掘ってここまで大きくしたのです。
(左)イノシシが泥をこすりつけた木。これをたどっていくと彼らの塒(ねぐら)にたどり着くかも。(右)御陵願平。転訛して五竜眼平とも。よく見ると二段になっています。里俗伝では、往古ここに会津比売神社があったとか。上杉謙信が庇護していたために、武田信玄に焼かれ、その後麓に隠れるように再建されたとか。現在は、上信越自動車道の薬師山トンネルの松代側の入り口の裏にひっそりと鎮座します。祭神の会津比売命(あいづひめのみこと)は、大国主命のひ孫で、夫は崇神天皇に初代科野國造に任命された神武天皇の後裔といわれる武五百建命(たけいおたつのみこと)といわれています。
その会津比売命を祀る会津比売神社。諏訪社系の神社なんですが、御柱はありません。全国でたった一社という非常に珍しい神社です。会津は福島の会津と関係があります。
崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。『日本書紀』
相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
この会津と、会津比売命の関係やいかに・・。大彦命は東征の後で、長野市篠ノ井の茶臼山動物園の下の長者窪という所に住み、薨去したと伝えられています。彼の功績を讃えて父出速雄命は娘に会津比売とつけたのではないでしょうか。
上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。春秋の祭には神楽が奉納されます。
この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、東北の大震災以降、知られるようになった貞観地震の記述がある『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。
その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。
■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)
つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、後に諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、出雲系と大和系が結ばれてできたといえるのです。
会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』をいいます。
会津比売神社御由緒で、その夫と伝わる建五百建命の前方後円墳、森将軍塚古墳です。科学的に証明はできませんが、埋葬されているのは初代科野国の大王といわれています。崇神天皇の三世紀後半ごろ、神武天皇の子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫・建五百建命(たけいおたけのみこと)が科野国造(しなのくにのみやつこ・しなのこくぞう)に定め賜わりました。そこで森将軍塚古墳の埋葬者が、建五百建命ではないかといわれているのです。古墳の築造は、4世紀代といわれています。
建五百建命の祖先は神武天皇ですから大和系。會津比賣命の祖先は大国主命ですから出雲系。この二人が結ばれ古代科野国の祖となったということです。これに関しては、信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏が、【信濃豪族の系譜】という文章を書いています。
森将軍塚古墳へは、麓の千曲市の科野の里ふれあい公園からシャトルバスが出ていますが、徒歩でも20分ぐらいで登れます。また公園内には古墳館がありおすすめです。駐車場を挟んで反対側には、長野県立歴史博物館があり、現在は「全盛期の縄文土器」を展示中。非常に面白いレベルの高い展示です。
●「全盛期の縄文土器」ー圧倒する褶曲文ー 長野県立歴史館:尽きない縄文の魅力(妻女山里山通信):11月23日まで開催中!
●古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証(妻女山里山通信)
◆『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。
★本の概要は、こちらの記事を御覧ください。
★お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。