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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

『真田丸』でお馴染み真田昌幸の、父 真田幸隆に攻略された尼厳城跡へ(妻女山里山通信)

2016-09-10 | 歴史・地理・雑学

 尼厳山「あまかざりやま」と読みます。長野市松代の東にそびえる780.9mの低山ですが、古刹あり、絶景の岩場あり、城跡あり、古墳あり、自然も豊かと見所がたくさんの山です。もちろん拙書でも紹介しています。玉依比売命神社(池田の宮)の前に駐車して望む尼厳山(左)。参道の鳥居前にも駐車スペースがあります。「延喜式」所蔵の古社で、新年に玉の増減でその年の吉凶を占う児玉石神事は有名です(中)。登山口は神社の右にあります。
 まず天王山へ。尾根の端を鋤(すき)崎(古くは兒玉崎)といい、鋤崎峠は、第四次川中島合戦の時、上杉謙信が妻女山布陣の折りに越えたという伝説があります。南尾根と北尾根の分岐で左の北尾根へ向かい、最初トラバースしてから北尾根に乗り、登ると城跡の石垣(右)。この山域に点在する積石塚古墳をバラして作った見張り台でしょうか。

 右にロッククライミングのスポットがあります。オーバーハングしていますが、適度な隙間があり、ボルダリングやフリークライミングができる人ならヒョイヒョイ登れそうです。

 戻って左へ岩稜地帯を登ると、先ほどの岩の上に出ます。休憩に最適なテーブル状の岩頭がありますが、転落しないように注意。皆神山が見え、その向こうに信玄の狼煙山。さらに右奥には前回の記事で紹介した鏡台山。そこから右へ妻女山まで続く戸神山脈。左は高遠山、地蔵峠を経て保基谷岳、菅平へと続きます。

 山頂手前の城跡の空堀(左)。山頂までは、1時間30分から50分ぐらいです。山頂にある城跡の図(中・右)。岩稜地帯に囲まれた非常に険しい山城ですが、真田幸隆の攻略により東条氏はあっけなく陥落しました。その説明看板が山頂にあります。旧字では尼巖山・尼巌山、別字では、尼飾山・雨飾山、天飾山とも書きます。

 山頂からの展望は北側のみ。手前から上信越自動車道、千曲川、ホワイトリング、犀川、長野市中心街、飯縄山。右奥の黒姫山と、左奥の高妻山は雲の中でした。飯縄山は、拙書では3コース紹介しています。特に中社ゲレンデの公共駐車場に車をおいて、中社・西登山道コースを登り、帰路は瑪瑙山コースを下りてくるループコースはオススメです。5〜6時間、休憩入れても7〜8時間と一日で回れる楽しいコースです。詳細は拙書を御覧ください。上杉謙信にまつわる話も書いています。

 そこから右に目をやると、小布施、中野、飯山方面の景色が。左に斑尾山、右に高社山。中央を越後に向かい流れる千曲川。奥の尾根は、大ブナも散見される全長80キロの「信越トレイル」のある山脈で、向こう側は越後です。左にはMウェーブも見えます。

 山頂には6頭のキアゲハ、2頭のクロアゲハ、6、7頭のヤマトシジミ、オオヒカゲやアゲハチョウなどが乱舞。そのキアゲハが交尾?そこへもう一頭が参加して格闘状態に(左)。そのまま地上に落ちて交尾?(中)。でも何か変です。これ両方共オスではないでしょうか。交尾のシミュレーション? 騒ぎが収まって休憩中のキアゲハのオス(右)。何だかよく分からないことが起きました。蝶の研究家の山仲間に聞いたところ、これはよく見られる現象ということです。理由は不明とのことですが、別に同性愛ということではなく、前述したように、交尾のシミュレーションなんじゃないでしょうか。

 30分ほど昼餉を楽しんで南の岩沢・天の岩戸方面へ30mほど下ると、辰巳の岩という展望地(左)。昔は信玄柏ノ岩展望地と書いてありました…。登山道は左へ下ります。辰巳の岩から見た奇妙山(中)。拙書でも詳しく紹介していますが、この両山を縦走する人もいます。眼下に広がる杏の里、東条の風景(右)。奥の谷の集落は、モーニング娘。16の羽賀朱音ちゃんの生家のある豊栄です。ここから豊栄小学校や松代中学に通っていたわけです。長閑で本当にいいところです。
 また、太平洋戦争時、硫黄島で戦った栗林忠道中将のお墓のある明徳寺があります。

 辰巳の岩からのまるでジオラマの様なバーズアイビュー。麓の民家がほぼ真下に見え、ノスリやトビなどが眼下を飛んで行きます。畑に見える木は杏です。4月上旬の満開の時期は、まさに桃源郷ならぬ杏源郷。風景が桃色に染まります。帰路は途中から右へ折れて南尾根コースへ。休憩していたハイカーと出会い色々楽しくお話しをしました。拙書の紹介も。
 この山域は赤松林が多いのですが、妻女山や長野自動車道沿いの様に真っ赤に帯状に枯れた状況は見られません。やはり近くに高速道路や交通量の多い国道がないからでしょう。これらを見ても、松枯れ病の主な原因は排気ガスだと分かります。つまりネオニコ農薬の空中散布など無意味なのです。百害あって一利無し。税金の無駄遣い。それでも止めないという自治体は、農薬メーカーからキックバックをもらっていないか、市民は確認する必要があります。

 帰りに寄った妻女山展望台(旧赤坂山。謙信本陣はこの上の旧妻女山で本名は斎場山)から右に奇妙山、左に尾根の手前に尼厳山。その手前の森が真田十万石の松代城址(海津城)。手前の松代PAは、下りが名産のとろろ蕎麦セットが安くて美味くてオススメ。上りのおにかけ蕎麦も名物です。上り下りは徒歩で行き来ができ、一般道からもレストランには入れます。帰りは温泉マニア垂涎の加賀井温泉か松代荘へ寄って疲れを癒やすのもオススメです。

●尼厳城は、北の支尾根に谷街道の要所、可候(そろべく)峠を持ち、北には真田へ抜ける地蔵峠があり、松代の防御の要の詰城であったと思われます。第四次川中島合戦に至る8年前、村上義清が越後に逃れた直後の天文22年(1553)8月、武田晴信は真田幸隆に尼厳城攻略を督促しています。城主東条遠江守信広は、真田幸隆の攻略に敗れ越後に逃れます。加賀井にはその時に東条氏達が泣きながら駆け下ったという泣き坂という伝説の地名が残ります。
 落城後、武田晴信は、西条治部少輔に城の普請を行わせ、永禄元年(1558)4月の越後軍進攻の際に、「東条籠城衆」として真田幸隆と小山田備中守昌行をあてています。武田氏滅亡後、天正10年(1582)に上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条氏が城主に復帰しますが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の命により景勝の会津移封によって北信濃の武士(土豪)達は、妻子を連れて会津に移ったため廃城となったといわれています。 会津は信州人が造った城下町です。保科正之も大勢の家来家族を連れて転封しました。


尼厳山から天の岩戸へ下ったフォトルポ。パノラマ写真を堪能してください。天の岩戸の説明も。

川中島合戦の上杉謙信にまつわる妻女山と斎場山、陣馬平への行き方」『真田丸』で訪問者が激増中。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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