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『甲陽軍鑑』はなぜ斎場山を西条山と誤記したのか!?(妻女山里山通信)

2009-11-17 | 歴史・地理・雑学
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 まず『甲陽軍鑑』成立から松代藩によって西条山が誤記であるとされ、斎場山が妻女山と改名されるるまでを大雑把に追います。
●1561(永禄4)年、第四次川中島合戦。上杉謙信と武田信玄が戦う。

●1575(天正3・5-14)年、『甲陽軍鑑』原本編纂。香坂弾正忠虎綱(高坂昌信)が(勝頼在世中)書いた実録を香坂の甥・春日惣次郎らが書き継いだといわれています。

●1615(元和元)年、大阪夏の陣の年です。この頃、小幡景憲(おばたかげのり)が、『甲陽軍鑑』の原本を入手し、写本を作成した*といわれています。(*国語学者酒井憲二編『甲陽軍鑑大成』全七巻 汲古書院)原本は傷みが激しく抜けている箇所もあったということです。景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということです。小幡景憲は、大坂の陣での諜報活動から幕府に召し出され、後に御使番になり、武蔵国内の1500石に加増されました。その後、岡本宣就・赤沢左衛門に学び、幕府の要請で「甲州流兵学」を完成させます。その門弟は2000名を超えました。

●1620年前後、三代将軍家光の命により、越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が『甲越信戦録』五巻を編集して出版献上。家光は実録として認めました。

●1647(正保4)年、幕府の命により『正保国絵図』完成。妻女山と記載があり、現在判明している限り「妻女山」の初出です。松代藩が斎場山を妻女山と改名した。あるいは、改名を認めたということです。この場合の妻女山とは、現在の妻女山(旧赤坂山:411m)ではなく、斎場山(513m)のことです。

●1731(享保16)年頃江戸時代の松代藩による真田氏史書『真武内伝』には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とはっきりと記されています。『真武内伝』は、松代藩士竹内軌定によるもので、附録は柘植宗良編纂。成立は第四代藩主真田信弘の時代です。合戦の記述には物語性が強いのですが、地元だけに地名の記述は正確と思われます。

「斎場山」は、『甲陽軍鑑』に「西條山」と誤記されたために、江戸時代に「妻女山」と改称されることとなりました。『甲陽軍鑑』には、「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してあります。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのです。戦国時代においては、読みが合っていれば漢字の表記の違いは問題とされなかったといいます。しかし、松代藩には「西條山」という名の別の山があったために、一層混乱してしまったのです。

 では、「西條山」はどこかというと、千曲市生萱の明治時代の村誌によると、「高飛、火峯の山脈を俗に西条山という」とあります。高飛とは高遠山、火峯とはノロシ山のことです。また、江戸後期の榎田良長『河中島古戰場圖 』には、高遠山中腹に西条山と記されています。西条山とは、主に西条村以外の人達が使う呼び名です。例えば清野小学校百年誌には、西条山へ兎狩りに行ったという記述があります。西条山は山頂名ではなく、西条の谷の一番奥にある高遠山辺りを指す言葉なのです。そして、読みは「さいじょうざん」ではなく「にしじょうやま」です。

 では、実際に地元にいたはずの高坂昌信(武田信玄の麾下の武将で愛人、東大資料編纂所に浮気の弁明の書状が現存)と甥の春日惣次郎が、西条山と斎場山を間違えることがあるのでしょうか。結論から言いますと充分にあり得ると思います。戦国当時は、現在のように詳細で正確な地図があったわけではありません。山の形や位置も含めて松代藩の正確な地図ができるのは、1855(安政2)年の東福寺泰作による「松代府内測量図」まで待たなければなりません。それ以前の江戸時代の国絵図でさえ、村名や街道、河川はかなり正確に描かれていますが、山の描写は実に大雑把で、細かな山名記載もありません。

 ですから、高坂弾正や春日惣次郎らが「さいじょうざん」という呼び名と位置は知っていても、その正しい漢字表記を知らずに同音異字を使ったとしてもなんら不思議ではないのです。斎場山麓の土口村村誌には、【齋場山】[又作祭場山、古志作西條山誤、近俗作妻女山尤も非なり]と書かれています。つまり斎場山は、祭場山ともいうが、西条山は誤り。俗作の妻女山は最もだめな名前である。」というわけです。「さいじょうざん」を「さいじょざん」とすると同音異字ではなく、改名になってしまうからでしょう。

【齋場山】という漢字が妻女山に変えられたのは、西條山という誤った漢字で全国に流布してしまったのを修正したいという松代藩の意向もあったのかもしれませんが、古代の斎場という名称そのものが、仏教の伝来と浸透により忌避される名称となってしまっていたこともあるかもしれません。土口村誌に記されている「祭場山」は、それを読みを変えずに元の意味をも継承する苦肉の作なのかもしれません。

 写真の『甲陽軍鑑』は、公立国会図書館の近代デジタルライブラリーで、甲陽軍鑑を検索すると、明治25・26年に甲府の温故堂が発刊したものを見ることができます。これは、江戸時代に何回も出版された木版本が元になっているもので、仮名遣いにしたり、内容は編集改変されている可能性があります。

★川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。
武田別働隊が辿ったとされる経路のひとつ、唐木堂越から妻女山への長~い長~い尾根を鏡台山から歩いたトレッキング・フォトルポをご覧ください。
★フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】には、斎場山、妻女山、天城山、鞍骨城、尼厳城、鷲尾城、葛尾城、唐崎城などのトレッキングルポがあります。

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