初女さんの本に『昔は台所に火の
神様が祭られていましたが、
火事にならないようにということ
だったんだです。
だから本来は、火を使った調理中におしゃべりをしたり、脇見を
したりなんてしていられないん
ですよ。』と書いてあるのを読み
イスキアの台所を思い出しました。
イスキアに行くと決まって私は
初女さんが調理する横にくっついて
いました。
初女さんが調理をしている時は
気軽に声をかけてはいけないと
思えるような神聖な空気が流れて
いました。
どんな手慣れた料理も、真剣に
調理されていました。
時々、私がいるのに気がついて
初女さんが、食べる?と言って、私が差しだした手の平にお料理を
のせてくれるのです。
その時はとっても嬉しくて…
初めてイスキアに行った時に、
一緒にりんごのコンポートを
作ったのですが、ドキドキして
同じ大きさに切れなくて、
恥ずかしかったのを今でも
覚えています。
あの、イスキアの凛とした台所の
空気は今も私の心に刻まれて
います。
初女さんは、『今は何でもスイッチ一つで済むようになって
しまったでしょ。
だからお料理講習会でも、
ぺちゃくちゃおしゃべりばかり
している人もいます。
そういう人はたいがいお鍋の中を
見ないで、ノートや時計だけを
見ていたりします…』と書いて
います。
先日、味見をしないという
方の話を聞いて驚きました。
レシピの分量通りに作れば味見を
しなくて出来るからでしょうか?
初女さんは、ほうれん草をゆがく
時も、ほうれん草のいのちを
生かすためには、どうゆがけば
いいのかを考え、ほうれん草が
お湯の中で一瞬、輝く時があり
それが「いのちのうつしかえ」
の合図だから、その瞬間を
逃さないようにお湯から
引き上げるのです。
おしゃべりしてるとこの瞬間を
逃し、ほうれん草が柔らかく
なりすぎて、べちゃっとなって
せっかくの「いのち」が
失われてしまうのです。と記し
ています。
あのイスキアの神聖な空気は
初女さんの食材と向き合う心
から生まれていたのですね。
素朴なお料理の一つ一つの
味わいの深さは、初女さんの心
そのものだったのですね。
こういうお料理だから、食べた
人の心の扉を開くことが
出来たのですね。
初女さんのあの味を少しでも
再現したいな~
初女さんのお料理を食べたって
ことは、私の一つの財産かも
しれません。
初女さん、有り難うございます💗