今朝一番に知ったこと、「間違いは即、正される」
私の敬愛するKさんから、おむすび講習会を
されるというメールが来たので、「初女先生も
応援されていると思います」と返信したら
「応援とは分離でしょ…初女先生のしたかった
ことに関しては、共存して行っていると思うから
『初女先生、ご一緒にお願いします。』と
唱えてます」と…
そして、こういうことがKさんにとっての
「森のイスキア」だというのです。
私は、昨日のブログで「場」が欲しいと
書いてしまいましたが、初女さんは
『ひとつの出会いがまた次の出会いへと結ばれ
融合し、うねりとなり、波の様にどこまでも
広がっているのが、はっきりと感じられます。
ひとりひとりに森のイスキアが宿っているー。
そのことがなによりの励みです。』と
書かれています。
「場」ではないっていういうことです。
この文章を読み返し、自分の誤りに気づきました。
間違った方向に行こうとするとき、こうやって
即、正してもらえる…
何という感謝でしょう。
初女さんの愛を感じます!
「直さん、必要なものはすべて与えられて
いるのよ」という初女さんの声が聞こえて
きました。
『「いまを満足する」
これは、仏教の言葉で言うなら
「知足。足るを知る」に近いでしょうか。
自分の「いま」に満足し、そのことに
「感謝」の気持を持つこと。
そういうふうに考えれば、自由な気持ちに
なるはずです。
一度、望みを脇に置いて、すでに与えられて
いるもの、手にしているものをも見直して
みるのもいいでしょう。
私は最近「いまを生きる」という言葉を
よく使うのですが、その言葉とも通じるところが
あるように思います。
佐藤 初女 』
クリーニングの割引のチラシが入ったので、
コートを出したらこの寒さ
桜も満開だというのに、春になるのは簡単では
ないんですね。
先日、あるアンケートに答えるので読んでいたら
「あなたが欲しいものは?」という質問があり
あれこれ考えて、今の私が本当に欲しい物って
何だろうと思ったら、「場」が浮かんできたのです。
誰もが来れて、そこに居るだけでホッとできて
また、元気になって帰って行けるところ
こう書いて、あれっ?これって
森のイスキアみたいって思ったんです。
今、こういう「場」が求められているんじゃ
ないかな~
ネットで繋がり、情報は手軽に入るし
Facebookでは、いつの間にか友達が一杯
出来ているけど…
本当に求めているものって、そういうことじゃ
ないんだと思うの。
初女さんに「もうすぐ、息子の命日なの」と
言ったら、初女さんが私の手を繋いで、
ずっと一緒に歩いてくれた、そのことだけで
私は、この悲しみが乗り越えられると思えたし
実際、乗り越えられました。
時々、もし初女さんに出会ってなかったら、
私はまだあの深い悲しみの中で苦しんで
いたかもしれないと思うのです。
そして、故郷に帰る様に通った「森のイスキア」
本当に有難かったです。
けれども今は、初女さんがいなくなり、
森のイスキアも役目が終わったかのように
森に還って行っているような、そんな気がします。
小さくても、ホッとできる「場」が欲しいな~
それが、今私が一番欲しいもの!
『春の雪解けを待って
人生に迷い心疲れた人たちが訪ねてみえます。
どなたも”受けとめてほしい”と願いながら
満たされず心に傷を負っています。
私は森のイスキアを拠点に
悩み苦しむ人たちのためにお料理をつくり
一緒に食べて、お話しを聴く。
そのようなささやかさ活動を続けてまいりました
形にもなってないし、決まりごともありませんが
食べることを大切にしております。
ともに食することは、ともに在ること。
どんなに言葉を尽くして話すより
深いところで通じ合えます。
佐藤 初女』
夕方、桜の名所に行ったら思っていた以上に
咲いていました。
でも、遠目で真っ白に見えるので桜って
こんなに白かったかな~と、ちょっと寂しい
気持になりました。
都会の桜から色が無くなって行っているように
思うのは私だけでしょうか…
弘前の桜が心に強く残っているからでしょうか。
初女さんのご主人は桜の研究をされていたそうです。
桜を見ると、夫のことが偲ばれると初女さんは
書かれています。
桜は、日本人にとってやはり特別な花
誰もが、それぞれの思い出を持っている
そういう花なのでしょうね。
『すべてが今この瞬間に
あると思うから
刻まれるこの時間を大切にする』
桜の花を見ると、初女さんのこの言葉が
思い出されます。
今日は朝から「書」の制作会でした。
畳1畳ぐらいの大きさの和紙に書くので、「書」
という言葉から連想できないような全身運動
なのです。
毎回、苦しみながら「書けない~」を連呼して
いる私です。
今回は「霊」を書こうと、やっぱり苦しみました。
なぜ「霊」を書こうと思ったかというと
「書」という表現で息子のお墓をたてようと
思ったのです。
ひょうきんで、どこまでも明るかった息子
そんなあの子のお墓「霊」は、見た人が
笑ってしまうような大らかな作品になればと
思いだけは、熱かったのですが筆にその思いが
届かず、またしても撃沈!
5月12日~18日まで、上野の東京都美術館の
「墨人展」に出すのですが、一番へたくそな
作品が私の「霊」かも~
誰か一人が、「なんだこれ?」って笑って
くれたら、それでいいか~
天国の息子が一番笑ってくれるかも…
昨日は、ピアニストのウォンさんと鈴木重子さんの
コンサートでした。
前日のぽかぽか陽気とは打って変わって、
冷たい雨が降っていました。
イベントの朝はどこか気ぜわしいのに、この日は
まったり、ゆったりとの空気が流れていたのです。
これがこの日の一つのテーマの様に…
主催者の心意気で、中学生以下と75歳以上は無料
「お年寄りは無料だって聞きました」と言って
来て下さったご老人の方々
赤ちゃんから高齢者まで、音楽には壁は無いって
感じでした。
皆で歌おうと、重子さんが指導する発声練習が
ユニークで、「猫になってにゃ~ん」と、やると
会場の皆さんがみんな猫になったのです。
ほんわかで温かい雰囲気に包まれ、心に春が
来たようでした。
ウォンさんのピアノは、勿論素晴らしく
ずーっと続いて欲しくなるような豊かな時間でした。
コンサートが終わって会場から出てくる人が
どなたも皆、やわらかな笑顔になっていました。
ひとりのご老人が「こんな素晴らしいコンサートを
無料で聴かせてもらって」と言ってそっと千円を
置いて行かれました。
CD販売もしたのですが、重子さんがご自分のCDを
持って来るのを忘れ、チラシにサインをしている
お姿も、微笑ましかったです。
何か何まで、温かく本当に素敵なコンサートでした。
重子さんの「春が来た」の歌声に乗って春が
訪れたようです。
ウォンさん・重子さんと「にゃ~ん」と記念撮影
春分の日を迎えた途端に、日ざしが変わって
来たように思います。
うぐいすが一生懸命鳴く練習をしているのが
何とも愛おしく聞こえます。
春は生きものが動き出す季節なのでしょうか。
「森のイスキア」も、初女さんがいらした時は
春を待ってオープンしてました。
春の連休にイスキアに行けることは、この上もなく
嬉しいことでした。
弘前の桜が見れて、山ではふきのとうが顔を出し
明るい季節の中を、自分んも進んでいくのだ
という気になって…
先日出会った言葉が、ひと月ぐらい風邪ひき
ちょっと落ち込んでいた私を励まして
くれました。
『人生に遅すぎるということはない
50歳でも、60歳でも
新しい出発は出来る
安藤 百福 』
『人生は出来ることに集中することであり
出来ないことを悔やむことではない
スティーヴン・ホーキンス』
初女さんは71歳で森のイスキアをつくり
始めたのですからね~
本当に人生に遅すぎるということは、ないのですね。
WOWOWシネマの「W座からの招待状」で
解説をしている放送作家の小山薫堂氏が
毎回、その映画をモチーフとした詩を書き
上映前にその詩が読まれるのですが、
それが何とも味わい深いのです。
ご飯について書いた詩も、初女さんがご健在
だったら、私は直ぐに「こんな詩がありますよ」
と、手紙を書いたに間違いありません。
初女さんは「あら、男の方がこの詩を書いたの」
と、感心されるかも…
初女さんのご飯への思いと重なる詩です。
『ごはんの力』
つやつやの白いお米から立ちのぼる湯気を
見ているとこの国に生まれた幸せを感じる
ごはんは「優しさに」満ちている
傷ついた心をいやす優しさがある
ごはんには「包容力」がある
どんな怒りもそのおいしさに包まれれば
たちまち消えてなくなる
ごはんは「ふるさと」を映す
その土地にあるもの全部を
かたちにしてくれる
改めてごはんの力を想う
作り手の愛をそのまま伝えてくれる
ごはんのすごいチカラを
小山 薫堂
心響いた新聞の言葉があります。
写真家の藤原信也さんの自伝小説『鉄輪』から…
『家が破産し、母と共に列車に乗った高校生が、
隣席の男に「ぼく、どこに行きよるん?」と
訊かれ、鉄輪(かんなわ)と答えると
「遠いぃん?」と。
「知ちょらん」と答えると、「知らんとこに
いくんかいね」と畳みかけられ、
「家が無くなってしもうたから」と呟くと
「家がのうなっても、仏さんはついて来るけぇの
安心し…」と、声をかけられた。
大切に思うものは、死者と同じく、心を
去らなば消えはしない。』
この短い文章がズンと心に降りて来ました。
仏さまも神様も、亡くなった人も心を
去らなければ消えない、自分と共に在り続けて
くれるということです。
何と心強いことでしょう…
ひとりぼっちと思う時も、ついていて
くれるのです。
ほんに有難いです。
吉本ばななさんの「ジュージュー」を読みました。
ばななさんの小説って、死が頻繁に出て来ます。
こう書くと暗い感じがしますが、死者が生者を
支え励まし、その生を輝かせるのです。
でも、幽霊が出るわけじゃなくて、死者の
存在がです。
こんな風に書くと、変に思われるかも
しれないけれど、死んでもその存在は確かに
あると私は信じています。
きっとばななさんんもそうだと思います。
亡くなった人たちは、生きてる人の幸せを
心から願って応援していてくれるんだと
思います。
だから、私たちが喜んだり生き生きしていると
亡くなった人たちも嬉しいと思うの。
今日、夕方の空を見上げたら、桃色の雲
浮かんでいて、天国へ行った人たちが
雲の上から私たちを見ているような
気がしました。
初女さんが亡くなられた時の頬が、桜貝の
ような桃色だったのを思い出しました。
空を見上げながら、あ~私たちって見守られて
いるんだな~って思えました。
それだけで心の奥が、ぽっと温かくなった気が
しました。
ばななさんの小説を読んでいると、やっぱり
心がぽっと温かくなって、生きてるっていいな~
って思えるの。
そして読み終わった時に、一度しかない人生
だから丁寧に生きていこうという気持ちに
なるのです。
「ジュージュー」もそういう小説です。
おススメです!
私は、初女さんに出会って本当に優しい人は
強いと実感しました。
強さに裏打ちされた優しさ
このことが若い頃は分かりませんでした。
誰でも優しい人が好きだし、自分も優しい人で
ありたいと思っていますが、優しさの深さが
分かっていませんでした。
初女さんのこの言葉に、初女さんの優しさが
思い出されました。
『「受け入れる」といっても、ただ親切に
すればいい、かまってあげればいい
ということではありません。
「受け入れる」というと、すべてを、
どこまでも受け入れる、と思う人が
いるけれど、それは違います。
間違っていると思えば、そのように
対応することも同じくらい大事なことです。
言葉ではなく、意地悪でもなく、
どう対応するかは、自分の生活で見せて
いくしかないのです。
佐藤 初女』