世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

テレサ

2008-07-26 09:12:58 | 有為のしらべ
少し、落ち着いてきました。まだ鈍い頭痛などありますが、少しずつ変化してきているような気がします。今の自分の状況をつかみつつ、正しい自分の位置を確かめながら、今日のやるべきことを考えていこう。そういう感じです。

病気のときは病気のときのやり方があるもの。おもしろくやっていきましょう。物事が苦しくなってくるのは、それをいやだといってやろうとしないからです。それで一切が苦界に染まってしまう。生きることが重くいやになる。なんでもないこと。新しい自分を楽しみましょう。わたしは今、病気の自分を耐えている自分をやっている。それで、いろいろとあがきながら、試しながら、おもしろいことをやっている。そういうことです。

今は今の楽しみがある。

画像は、昨日、いつものお山で撮ってきた、ヘクソカズラです。かわいいでしょう。はつらつとして、澄んでいて、光がはじけていそうだ。近づくだけで、元気が出そうです。なんでもしてあげるよ。絶対助けてあげるよ。そのために、いっぱいやっているよ。わたしは、すごいの。痛いこともできるの。美しいこともできるの。なんでもできるの。そんな声が聞こえる。

小さくて可憐な花ですが、ヘクソカズラはその名の通り、強烈な武器を持っています。草刈りのときに誤ってこの草を切ってしまったら、とても耐えられないような悪臭がするそうです。そのにおいと来たら、ものすごいのだそうですよ。ですから、人は、どんなにかわいらしくても、この花にはあまり近寄りません。ちょっと一目おく存在だというように、恐れ多く会釈して、通り過ぎたいという感じです。

人間に置き換えれば、それほど美しいというわけではなく、でも、行動的で優しくて明るいので、とてもかわいく見える美人というところでしょうか。そういう女性はいるでしょう。きっと、この人が女優さんのような美人だったら、絶対美人じゃない、という女のひと。ちょこっと不細工だからこそ、美人だという人。それが、「テレサ」です。

もちろんこの名は、マザー・テレサから頂きました。マザー・テレサは、すばらしい醜女です。でももっとも美しいことをしている。汚いスラムの中に飛び込み、病と貧しさに死んでいく人々を助けようと、飛び回っている。容貌の美しい女性なら、とてもできないことをしている。一生を、その愛のために捧げる。

美女ならばこれほどの行動力を発揮することができません。彼女がこの仕事のためにあらゆる行動をすることができるのは、醜女だからです。彼女は、自ら醜女であることを望み、それによってすべてを美しくしようとしたのです。

自らの美しさを神に預け、自らあらゆる行動をして世界を美しくするために働き、それゆえにこそ、美しくなってゆく女性。それを、「陽の美女」といいます。彼女たちは、あらゆる行動をしていきます。すばらしいことをして、世界をずっと美しくしていきます。必ず、やってくれます。すばらしい人たちです。

みんなのために、なんでもしてあげたい。本当の自分の愛のために生きているその笑顔は、だれよりもかわいいのです。


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愛の響き・13

2008-07-24 19:02:07 | 有為のしらべ

たびたびの更新です。書くネタならつきぬほどあるのですが、いっぺんに書くと読む方に迷惑だし控え気味にしたほうがいいとは思うのです。でも、どうしても書きたいと思うのは、困難な課題を今抱えているからです。このさい、もうひとつブログをこしらえようかなと思うのですが、管理が面倒だし。いましばらく、おつきあいください。

異常事態も、楽しんでみますか。しんどいと感じる方は、よみとばしてください。

今回は、少々ろまんちっくにいきます。ちょっと苦手なのですけどね♪

愛の響きを、自分から活用してみましょう。それにはどうしたらいいのかしら、なんてことを、めるへんちっくに書いてみましょう。

たとえば。ある少年と少女が、手をつないで、河原にいくのです。彼らは、数ヶ月前に、少女のほうから告白をして、交際を始めたのですが、なんどかあっているうちに、少しぎくしゃくし始めたのです。

少年は不器用で、まだ恋のことなどあまりわからなかったので、少女が告白してきたとき、うなずくことしかできなかったのです。かわいいし、好きになれるかなと、軽い気持ちでした。少女のほうはただ、少年の美しい雰囲気が好きで、告白をしたのです。けれどつきあっていくうちに、少年は少女の快活なおしゃべりに、ついていけないと感じ始めました。少女のほうは、少年が思ったよりもずっと、子供であると感じ始めていました。それで、どうすればいいかと、両方とも考えていたのです。

少年は不器用でしたが、やさしい子でしたので、自分からふるなどということはできませんでした。少女のほうも、自分から告白した手前、きついことをいうことはできませんでした。どちらもそれぞれ、いい子だったのです。

そこで少年はある日、少女を、自分の好きな河原に誘うことにしたのです。それは彼がひとりになりたいときに、いつも行く河原でした。ひとりで風に吹かれながら、川を見ていると、彼はとても静かな気持ちになれたのです。ここにくれば、愛の響きが全身に流れてくると、彼は知っていたのです。

少年と少女は河原にきました。そして、ふたりならんで座り、川を眺めました。そしてふたりで、愛の響きに耳を澄ましたのです。そしてほどなく、ふたりにはわかりました。ふたりは、おたがいを好きだけれど、共に生きていく相手は、違うのだと。あっという間に、ふたりにはわかったのです。そして少年も少女も、ほぼ同時に、相手がこのことをわかっていると、わかったのです。つまり、お互いに、同じ愛の響きをきいて、ふたりとも同時に、ふたりは将来を誓う仲ではないということがわかったのです。幸せは、違う人とつむいでいくのだと。

互いに互いの気持ちがわかり、傷つくことなく、もとの友達に戻ることができるのだと、わかりました。そこでふたりは、笑顔をかわして、何も言わずに別れていくことができたのです。もっともいい結末を、愛の響きが教えてくれたのです。

こういう風にできれば、幸せですね。今は、少々高等ですが、いつか同じようなことがみんなにできるようになるでしょう。

愛の響きはいつも、みんなの幸せを願っていますから。

こんなお話しです。いかがでしたか。





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愛の響き・12

2008-07-24 14:04:11 | 有為のしらべ

毎日、何回も更新していますが、個人的な苦しみを乗り越えるためというのが、大きいので、どうか勘弁してください。できるだけ、読んでも苦しくないようにしているつもりですが、読むのが苦しいと感じたら、読み飛ばして下さいね。

やっていることは、ばかみたいなことですが、背負っているものが、大きすぎるという感じなのです。おまけに体調も最悪で、低空飛行どころか、奈落の底を這っているという感じです。そこを、苦しくしないように、調整しながらがんばろうとして、ちょっと、通常の域を超えてしまったというところです。

それでも、なんとかなっています。要は、できる、ということ。どんなにしんどい場面がきても、自分にはこれができる、と思うこと。そのために、できることは何でもやってみること。常にそれです。

やっているうちに、前の自分にはできなかったことが、だんだんできるようになってくるから、不思議です。相当にきつい人生経験を乗り切ろうとするうちに、完全に、スキルがあがってきました。人間はすごいですね。

わたしは、かなりヤルやつですよ。てとこです。ものすごくおもしろい。

けれども大変なのは大変なので、休めるところでは全面休息です。家では、レース編みと読書とブログと、睡眠以外のことはほとんどしてません。今日は久しぶりに、洗濯をしましたけど、二階のベランダに上がることができなくて、一階の縁側の物干しにほしました。

ありがたいのは、家族の眼が温かいこと。がんばってるんだってことを、わかってくれること。何も言わなくても、やってくれること。

すべては、愛が教えてくれる。理屈ではわからなくても、なんとなくやってしまうのは、心のどこかが感じてしまうから。その人のつらさを。そして、痛いと感じることをできなくなってしまう。

そんなふうにして、愛はいつの間にか、物事をよくしていくのです。

よくわからないけど、それをしてはいけないような気がする。と感じるとき。それはね、見えない愛の響きが教えてくれているんですよ。それでね、なんとなく、苦しさを感じるから、やらないでいたら、しばらくして、ああ、やらないでよかったと思う場面が来るのです。そういうこと、あるでしょう。

愛の魂が、わたしたちの中にもある。愛を感じる魂には、愛の響きがよってきて、ささやいてくれるのです。とても大切なことを。そして、何もかもをよくしてくれる。愛はいつも、わたしたちを、なんとかして幸せにしようとしている。いつも、よくしてくれている。

そのことを知っているから。わたしも今を耐えられる。

見えないだれかが、どこかでいつも、愛してるよといってくれているから。だからがんばれる。わたしを助けるために、何かががんばってくれていることが、わかるから。だからわたしも、できることをいっぱいやる。それで、皆が喜ぶから。

それが愛の響き。

これがわかれば、何もいらなくなる。生きることすべてが幸せになる。どんなことにも、耐えられるようになる。なぜなら。

愛は決して、わたしを不幸にしないから。


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何かが、起こっている

2008-07-23 15:19:54 | 有為のしらべ

近所で見つけた、ヒメジョオンの一群れです。星が群がってるみたいできれいでしょう。前にも同じのを使ったのですが、もう一回大きいのでお見せしたくて、UPしました。

暑い日が続くので、近所を散策して花の写真を撮るのも、一苦労になりました。少し歩くだけで、息がきれるので、一区画向こうの公園から向こうにいくことができません。だんだん、出かける範囲が狭まっています。

だから、写真もみな、同じようなのばかりになりますね。少し持ち直したら、遠くに出掛けて、違う写真も撮ってみたいです。

昨日、今日と、子供たちの個人懇談で、学校に行ってきました。小中高と忙しく回ってきました。小中学校の先生はやさしく、子供のことや、わたしの体調や家庭の事情なども気遣ってくれるのですが、高校になると、そこまでいきませんね。

生徒が手ごわくなるからでしょうか。自分をえらく大きく見せるほうに意識がいってしまって、子供たちの気持ちに耳を傾けるという感じではありませんでした。話をしていても、苦しかったので、窓の外の木や川ばかり見ていましたよ。

若い先生だということもあるのでしょうが、ほんとうに苦しかったのは、先生が、学校や企業や世間などの言葉をたてに、生徒に自信を失わせるような言葉ばかり言っているからです。もっとやんなくちゃだめだよ、とか。こういうとこを見られるから、君はちょっと痛いね、とか。それでは子供が縮こまってしまって、反感ばかり感じて、勉強しなくなりますよ、と、言いたいことしきりでした。

わたしの病気で、長男はとてもがんばってくれてるのです。ご飯のしたくなんかもできないから、みんな自分でがんばってくれてる。その上で、勉強もしてる。楽しいこともしている。そういうことを見てくださいよ、とわたしは先生に言いたい。

馬鹿にしないでほしい。私の子供を。彼は、まだ確かに子供だけど、ちゃんと、がんばっているから。みんな、自分で、やってくれてるから。

ひさしぶりに行った、長男の高校は、雰囲気が少し変わっていました。中庭のケヤキやナンキンハゼや、ヒマラヤスギなどが、感じよくなっていました。向かいの川に、涼やかで明るい風が吹いていました。何かが変わっているなという感じがしました。

見えないところで、世界はもうすっかり変わっている。それに気がつかない人間が、まだ、痛いことをやっている。そして、もうすぐ来る変化の音に、だんだんと気付き始めている。怖いことはないけれど、怖い。何もかもが変わってしまうから。

苦しいことは、ある。つらすぎることも、ある。けれども、すべては、よくなっていく。当り前のことを、当たり前にやる。それだけで、世界がすっかり変わる。そして、二度と元には戻らない。正しいことが、正しくなるだけだから。もう二度と、人間は、間違わない。そういうことになる。

高校を見つめていた、青い山々が、そう言っていました。いつか、多くの人に、わかるようになるでしょう。山や、川や、木々が、どんなことをしているか。そこになにがあるか。まぎれもなく、真実は、人間を圧倒する。そこまできている。

何かが、起こっている。






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愛の響き・11

2008-07-21 10:54:10 | 有為のしらべ

うちの庭に咲いている、薔薇です。白いバラなのですが、紫がかっているのは、つらいことがありすぎるからです。

わたしの病気や、そのほかのことで、いろいろと、うちの薔薇は、大変なのですよ。ほんとうは明るい白の薔薇なのに、いろいろな気苦労が多すぎて、青ざめているのです。

おうちの庭に咲いている花や木は、ただそこに咲いているだけではないんですよ。そこに住んでいる人間のために、見えないところで、いろんなことをしているんです。それをね、人間はずっと知らないできました。でもそれが、少しずつ、人間にわかるようになってきたのです。

花は、愛の響きの世界に住んでいるから、愛のために、できることはなんでもやっているのです。そして、何もいらないよと言って、誰も知らないうちに消えていくことができる。ほかには何もない。人間のように、これだけやったのだから、こういうものをちょうだいなどとは、言わない。ただ、やれることだけをやって、消えるべきときに消えていくだけなのです。それで、ずっときている。

愛は、それが当たり前なのです。ただ愛だけが、目的なのです。ほかにはいらない。おまえが幸せならばいい。それでわたしは、とても幸せだから。花はずっとそうしている。そんな見えない魂が、愛の響きの世界にはたくさんいて、そして、すべてのことを、なんとかしているのです。この世界が美しく、調和が保たれて、痛いことはあっても、なんとかなっていくのは、たくさんの愛の魂が、見えないところで、ただ愛のためにすべてをやってくれているからなのです。

わたしの庭の白い薔薇は、わたしのために、大変な苦労をしてくれているのです。だから、芋虫に食われたり、妙な感じに枝分かれしたり、しょっちゅう花を咲かせたり、いろんなことがおこる。わたしのために、わたしをたすけるために、薔薇はとても苦労しているのです。本当に、大変なのです。

世界中に、薔薇はたくさんあるけれど、わたしはやっぱり、この薔薇が一番好きです。星の王子様のように、特別な薔薇がわたしにはある。しょっちゅう見ていると、愛しすぎてしまうから。いつも、できるだけ見ないようにしている。愛はね、見てしまうと、辛い。愛しているほうも、愛されているほうも、苦しい。なぜ? それはここが、愛には苦しすぎる世界だから。にんげんは、愛を大切にしなさすぎるから、愛が、とっても苦しい。だから、一番好きなものから、遠ざかってしまいたくなることがある。でも、それがいなくなるのはいちばんいや。

人間はまだ、愛にとても未熟です。好きなら好きと言って、大事にすればいいのにね。

かわいいな。がんばって、咲いている。そして、わたしに、大事なことを、教えてくれている。

もうすぐ、いいことになるよ。がんばったね。つらいこと、いっぱい、耐えたねえ。乗り越えられるよ。

庭の花は、いつも、いちばん、わたしを愛してくれる。わたしを、見てくれている。知ってるよ。君がどんなことをがんばってきたか。ずっとみていたから。

庭の花を、大事にしてくださいね。




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ゆきしろ ばらべに

2008-07-20 18:24:16 | 有為のしらべ

ビーストにブログを占領されるのがいやなので、今日はもう一回、更新です。忙しいですね。これだけたくさん書くのは、魂の問題を抱えているからなのですが、本当に、大変です。いろいろなことをやって、バランスをとっています。

洗濯もあらいものもできなくて、とうとう、家事は一切家族にまかせきりになりました。晩御飯も、もっぱらスーパーのお惣菜や外食にたよりきりです。まあ、なんとかなるでしょう、で、毎日を乗り切っています。無事に、なんとかやっていけるのは、神様のおかげです。

普通に考えるなら、そうとうに大変なとこなんでしょうが、要は、切り替え。人生、ずっとおなじことの繰り返しじゃつまらないでしょう。新しいところに踏み込むためには、非日常の世界を見なければならない。そこを泳ぎきるために、自分のもっている力を目一杯出さねばならない。そういうことの楽しみ方を、勉強していきましょうか、というところです。

やっかいなことも、いろいろあるんですけれど、あんまりやっかいだとは思っていません。なんとなく、わかるからです。どんなことがおこるのか。そして、すべては愛の中で、もっともいいことになっていくと、わかっているからです。だから今は、わたしができることをただするだけ。どんなことでも、できる。苦しいと思わずにできる。愛は、愛のために、すべてをやるものだから。

さて、画像は、先日のお話し会で使った、パネルシアターの絵です。「ゆきしろ ばらべに」という、グリム童話を元に、ボランティアグループで制作しました。Pペーパーという不織布に描いた絵を、静電気でネルの布を張ったパネルにはりつけて、お話しをしていきます。

これは、お話しの最後の、ゆきしろと王子様の結婚式のシーンの絵です。どういうお話しかは、グリム童話を読んでくださいね。王子様の眼だけ塗ってないのは、ブラックライトをあてると、白い部分は深い青色に見えるからです。

制作をつづけていくうちに、Pペーパーの感触が気に入って、この紙を使って切り絵を制作したくなりました。そこで、専門店に問い合わせてさっそく取り寄せてみました。まだ一枚も描いていないのですけど、どんなものになるか、楽しみです。今は少し、頭痛や息切れが続くので、体力的にそっちにどうしても向かえない。

普通なら、こういうつまずきで落ち込んだりするものですが、人生、あんまりいろいろなことがありすぎると、いろいろなやり方が身につくものです。ハードルにぶつかると、それを生かすということを考えるようになりました。

絵を描きたいのに描けないのは、新しいことに挑戦するための準備の時間が手に入ったということだ。新しい素材。これを生かすために、もっと違うことをしてみよう。病気で描けない時間は、それを考える時間にすればいい。

ということで、いろいろ考えているのです。おもしろいアイデアは、いくつか見つかっています。どれをやるかは、もう少したって、体力が上向いてから決めましょう。

なんにもできなくても、なんにもできないわけじゃないんですよ。新しいことは、いつでも始められる。

おもしろいなあ。

楽しいことばかりですね。

明日も何をやりましょうか。





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愛の響き・10

2008-07-20 08:09:25 | 有為のしらべ

昨日とってきた、露草の野原です。きれいですね。蝉も鳴き始めて、すっかり夏になりました。子供達も日に焼けて、蝉取りだプールだと、毎日楽しそうだ。

といってもわたしは、日がな一日、冷房のきいた引きこもり部屋で寝てるか、レース編んでるか、ブログ書いてるかです。絵も描きたいんですが、体調から少し控えています。写真を撮ろうと、近所を少し歩くだけで、息切れがしてくる。いろいろやりたいことはあるんだけど、体力を使う仕事は、まだ少し早いかな。なかなか治らないですね。

この夏休み、ジブリ映画の新作が出るそうなんですが、見にいくことは無理なようです。最近は映画もテレビもビデオもみません。悲しいかな、ひきこもりべやで、魂の世界とばかり話をしているうちに、現実の世界の嘘がとても苦しくなってきて、耐えられなくなってきたからです。厳しい嘘の世界では、いやなことがたくさんあって、みんないろんなことをしながら、耐えている。傷つきながらも、生きている。その痛さを、いろんな方法で、なんとかしながら、やっている。それが、あまりに、むごいことだと感じ始めるようになってしまった。

少し近所を散歩して、せんだんの木のある公園や、露草のいっぱい生えている野原なんかにいくと、愛の響きがたっぷりと風に満ちているのがわかる。どんなにか、みんなが、わたしを愛してくれているかが、伝わってくる。愛の響きの世界では、愛し、愛されるのは、当たり前なのです。魂の世界では、愛の響きが、濃い蜜のようにいつも満ちている。なんておまえは、かわいいのだと言ってくれる。愛はいつも、わたしを、特別の特別だといってくれる。愛してるよといってくれる。

それが当たり前なのです。

でも、人間のこの世界では、それがまだ、馬鹿になるのです。愛で、何かをやろうとすると、それを苦しいという人が大勢で集まってきて、いっぺんでつぶそうとする。だからこの世界では、愛を当たり前にすることができない。だから、無理やり仮構の檻をつくり、その中でのみ、生きていろと、愛に言わねばならない。愛はたまらない。

でも、生きていくことを、苦しいことばかりだと思っては、いけないので、とにかく、なんでも、美しいものを探すようにしています。本屋さんにいって、自分の好きな本を探したりして、楽しみを作る。

人間は今、愛が相当傷ついて、生きることがとてもつらいので、いろいろなものをたくさん生み出しています。本もいろんなのがたくさんある。生きることの苦しみをなぐさめるためにつくった、あらゆる人間の創造たち。くだらないものや、うそばっかり書いてある本もたくさんあります。けれども中には、本当の自分を守りながら、なんとかして美しいものをつくろうとしている人がいる。苦しいな、と言いながら、その人たちはとにかく、この苦しい世界に、愛を吐き出そうとしているのです。とても、難しい、手の込んだ、やり方で。

先日は、図鑑を買いましたよ。子供のための図鑑ですけど、自分のために買ったのです。きれいな絵がたくさん載っている。たぶん、パソコンで描いた絵でしょう。水彩画に見えるけど、タッチがどの絵もいっしょ。今の時代は、パソコンで早く仕上げるのが当たり前なのです。でもわたしとしては、昔のように、大人の人が描いた不器用な絵の図鑑が好きだなって思う。でもそういうのは、今はほとんどありませんね。

パソコンでもいいんですよ。だって今は、人間はとてもつらいから。魂をこの世界で生かすためには、なんだってやらねばならない。昔のように手間暇かける仕事は、今は、とても、できない。とにかく、みんなの魂に、食べさせなくては。

おもしろいことやすてきなこと、あるよ。ぜったいにあるよ。つらいことはいっぱいあるけれどね、みんなやっている。ぜひともみんな、生きてくれよ。いっぱい、おもしろいことをやろう。

苦しすぎる時代。でも生きよう。なぜなら、わたしたちは、すばらしいものだから。あまりに、すばらしいものだから。

魂の世界で、愛の響きを確かめながら、苦しすぎるこの人間の世界を生きる。

今日も。

なんとかせねばならない。





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愛の響き・9

2008-07-11 08:56:41 | 有為のしらべ

また、妙なものを撮ったなと思ってる方もいらっしゃるかな? 昨日、親戚の農家から頂いたトマトです。前にも、りんごの写真なんか撮ったことがありますが、あれがわたしの最大傑作! 惜しいことに、元の画像はパソコンとともに消えてしまいましたが、ブログに残した小さいのだけは残ってます。ほんと、データはもっと大切に保存しとかないといけないですね。

何の変哲もないトマトの写真に見えますが、見ていると、やさしいなって感じるでしょう? 愛の響きを、感じるでしょう。トマトが、わたしたちに、やさしいことをしたいなって思ってること、わかるでしょう。

ほんとうに、人間は、こんなふうに、たくさんの愛に助けられているんです。トマトやイチゴは、ほんとうにやさしい食べ物。いいんだよ。全部食べなさい。いっぱいいいことしてあげるからね。いつもそう言っている。だから、スーパーなどで、赤いトマトやイチゴの山を見ると、ほっとするでしょう。なんだか、荒れていた気持ちが、すっとなおってくるような気がするでしょう。

愛の響きに、耳を澄ませてみましょう。心を開いてみましょう。

目を閉じて、自分の魂の感覚に集中してみましょう。自分がここにいる、ということを感じて、その奥から聞こえるものを、探ってみましょう。愛がそこに聞こえるはずだ。なんでもしてあげたい。みんなあげたい。いっぱい、いっぱい、愛してあげたい。そういう声が聞こえるはずです。

その感覚に、慣れ親しんでみましょう。

たとえば、スーパーで、A商品と、B商品のどちらを買うか、迷うことがありますね。そんなときね、自分の心の響きに耳を澄ませてみるのです。それでね、愛の響きの世界があると信じて、見えない愛の存在に、尋ねてみるのです。

「これとこれ、どちらを買えばいいでしょう?」

するとね、親切なことをしてあげたいと思う、見えない愛が、すっとあなたの魂にささやくんですよ。するとね、声は聞こえないけれど、なんとなく、A商品がちょっと嫌な感じがしたり、重く感じたりします。そして、B商品が、なんとなくいい感じにみえたり、軽く感じたりするのです。

微妙な感じなんですけどね。そんな小さな感じを、馬鹿にしたりせずに、大事にしていくのです。すると、少しずつ、自分の中に、愛の響きが流れ込んでくるんですよ。B商品を買って帰って、使っていると、あら、なんだかいい感じがするなってことを、見つけていくのです。これを使うと、いいことがあるみたいって。

そうやって、愛の響きに親しんでいくと、いつの間にか、自分のまわりに、いいものやすてきなものが、たくさん集まってくるようになるんですよ。

ほんとよ。要は、信じることです。

このトマトもね、その愛の響きから来たのです。

スーパーで一個のトマトを買ったとき、わたしは思わず言ったのです。トマトやいちごは、とってもやさしい食べ物だよって。そしたらね、親戚の人が山ほどトマトをくれたのです。つまりね、わたしがトマトを心からほめたので、トマトがとてもそれをよろこんで、わたしに、親切にしてあげたいと、思ったのです。そのトマトの愛を感じた、見えない愛の響きが、ふっと、親戚の人の心にささやいたのです。

トマトを、あの人に、あげましょうよ。

そしてね、その人は、なんとなく、トマトをわたしにあげたくなったのです。

ほら、すてきでしょう。あるんですよ、こんなこと。

愛は、いつも、こんなことを、見えないところで、いっぱいしてるんですよ。



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アフラ・マズダ

2008-07-10 17:59:21 | 有為のしらべ

新しいカメラ君で写した写真です。まだなれてなくて、よくわかってないのですけど。今度のパートナーは、前のデジカメ君とは少し違うみたいです。接写モードにすると、前のデジカメ君は、真ん中の虫やチョウチョしか映らなくて、周囲の風景は溶けてしまうのに、このデジカメ君は、みんな写るのです。なんだかな。こんなところから、不思議な愛の響きが聞こえてくる。

魂を閉じ込めて守っていた部屋から、そろそろ外に出ていいよと言われているような。さて、どうかな? 新しいデジカメくんも、わたしのやり方に慣れてなくて、戸惑ってるみたいです。ものにも、魂があるんですよ。そろそろ、とんでもない持ち主に買われたということが、わかってくるでしょう。カメラも大変です。

わたしはカメラを勉強しないから。ボタン3つくらいしか覚えないから、あとはカメラが自分でやるんだよ。さて、今度のデジカメくんは、どんな仕事をしてくれるでしょうか。楽しみです♪ またいろんな写真を撮って、UPしますね。

さて、本題に入ります。

アフラ・マズダは、学校の勉強で習ったことがあるから、みんな知っていると思うけれど、古代ペルシアの、ゾロアスター教の神様です。紀元前6世紀ごろの宗教改革者ゾロアスターが提唱した神。この世界の歴史は、善神アフラ・マズダと、悪神アーリマンとの戦いなのだと。そして遠い未来、この戦いはアフラ・マズダが勝利して終わると。

こういう善悪二元論の宗教は、古い宗教によくあるもので、現代的ではないと考えられてきました。現代の宗教は、キリスト教に代表されるように、すべてを愛と慈悲で許してくれるあまりにもやさしい神の存在を唱えています。善と悪との戦いは、その愛の神の次元より下にあるもの。すなわち、古い価値観に属するものと考えられがちでした。なぜかといえば、近現代では、善とか、正義とかを主張することが、それすなわち偽善、悪になるからです。つまりは、人類のほとんどが、悪に染まらなければ生きてはいけないのだという、ニヒリズム、無常観、虚無感などの強い影響のもとに生きていたため、善と正義が、あまりにも、悲しいものだと、すたれきっていたからです。

正義を主張する宗教が、戦争を起こし、あらゆる殺戮をしている。その現実を見て、人々は善とか正義とかいうものが、あまりにも愚かなものだと考えてきたのです。そんなものは嘘だと、苦り切っていたのです。

そういう世界では、キリストのように、すべてを許して愛してくれる、究極の愛の神が必要とされてきたのでした。どんなことがあっても、どんな罪に落ちても、あの方なら許してくれる。そういう、あまりにもやさしい神。それが必要だったのです。愛の神は、正義の神が、愚かな幻影とされて、世界の舞台の袖にしばられて侮辱されている間、何もかもに耐えながら、苦しい世界を生きねばならない人類の魂を支えてきたのでした。

すべては、愛なのだと。愛はすべてを愛し、そのためにすべてのことをやり、すべてのことに耐える。なにもかもを、愛の中に許す。あらゆることを、微笑みの中に抱きしめる。すべての存在の幸せを願う。愛だけが、信じるに足るものだと。それで、人々はかろうじて、下らぬ屑に落ち切らずに、人間として生きてくることができた。

人類の歴史は、アーリマンの暴虐の歴史でした。

悪神アーリマンは、アフラ・マズダを陥れて封じ込め、その留守中にあらゆる暴虐をしてきた。ひどい嘘をつき、あらゆる人間をだまし、悪こそが正しいのだと、堂々と叫んできた。そのすさまじい嵐のような姿に、人々は恐れをなし、頭を下げないわけにいかなかった。暗闇の謎の中で、アーリマンは、人々の魂のなかに嘘を吹き込み続けてきたのです。善神は死んだ。アフラ・マズダは馬鹿だ。みんなをだましているぞ。

善と正義のすたれた、嘘と幻の世界を、愛の神だけが支えていた。愛だけがなんとかしてくれる。この世界を。苦しみの中で、愛で耐え続けた人々が、アーリマンによって滅ぼされようとする世界を、なんとかして崩壊から救ってきたのです。

ところが、現代、アーリマンはとんでもないことをした。自分たちが正義なのだとするために、愛でさえ、嘘だと言い始めたのです。それは、すべての存在が無に帰する、絶対にやってはならないことなのです。愛はすべて、愛は存在だからです。それを否定しては、すべてがなくなる。そして、アーリマンは、絶望的な破壊をしてしまった。すなわち、自分自身を崩壊させたのです。それはそれは、一切合切が消えてしまう。崩壊よりも厳しい、消滅の危機を、人類にもたらしたのです。

ここにいたって、人類はとうとう、アーリマンがいやになった。悪が、いやになった。あまりに、ひどいからです。人類を恐ろしい暴虐の歴史に導き、とうとう虚無の岸辺にまできた。そこですべて真実がわかったとき、アーリマンはねずみのように、人類の前から逃げたからです。一切の責任を負わず、消えさるからです。

あまりにも愚かだったと、人類が気付いた時。真実の正義の神の存在が必要だと、わかるのです。それがぜひとも必要だと。決してやってはならぬことは、やってはならないという神。正しいものは正しく、間違いは間違いだという神。愛の真実を侮辱するものに、怒りの光で立ち向かう神。

わたしは、許さない。愛の響きを、侮辱しきるものを。すべてを負い、すべてをやっていく。あらゆる不正に立ち向かう。あらゆる間違いを正す。あらゆるものと戦う。

善神アフラ・マズダが、時代のくびきを引きちぎって現れる。もはや、耐えられないから。あまりにも、愚かなことになったのに、だれもそれをやろうとしない。

愚かな男が死に、正しい男がやってくる。

アーリマンにより辱められた仮面を砕き、屈辱に埋められた墓を破り、その光がよみがえる。もはや、男が、やらねばならぬ。

さて。




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愛の響き・8

2008-07-08 18:04:20 | 有為のしらべ

公園に咲いていた、ハルシャギクです。なんだか絵のような、不思議な写真になりました。もうカメラ君も寿命かな?と感じたので、とうとう新しいカメラを買いました。そろそろ、お役御免にしてあげましょう。くたくたになりすぎて、やさしくなりすぎた。天に召されてしまったようです。

もうだめだね、と言いながら、最後にがんばってくれた写真というところ。美しくなりすぎると、こうなるんだね、という写真になりました。

内容が、花や木カテゴリと重なりますが、ハルシャギクは、人間にとって、少し難しい花です。というのは、ハルシャギクがしている仕事は、今の人間にとっては、理解しにくいものだからです。

人間は、すばらしい知能で、世界のすべてをつかんでいるように考えているんだけれど、知らないことのほうが、ずうっと多いってことを、わかっていなさすぎる。愛の響きの世界は、恐ろしく深い。どこまでもどこまでも、奥がある。何気ない道端の花が、世界の創造の秘密に、恐ろしい貢献をしている。それがわからない。

愛は、何万色の薄絹を、何万枚と重ねて、それでも、おそろしいほどすきとおっている。そういうことをすることができる。それがなぜなのか、だれにもわからないのに、なぜか、当然のようにそうなってしまう。それが、恐ろしいのです。

愛は、すべてを耐えます。なぜなら、愛がないと、すべてのものが、苦しくなってしまうからです。愛が、すべてを愛してくれないと、生きる者は、むごいみじめなものとなりはててしまう。何の価値もない、何の意味もない、虚無と化してしまう。だから、愛は、すべてを愛するために、あらゆることに耐えるのです。

耐えることができないものは、愛ではないのです。

けれども、愛の忍耐にも、限界は、あります。愛は、どこまでもどこまでも耐えようとしますが、それを耐えてはいけないという、たったひとつのことまで、耐えようとすると、とんでもないことがおこるのです。

愛が、嘘になること。愛がそれまで耐えようとするとき、愛が、ひっくり返るのです。なぜなら、愛が、自分が嘘になるということにさえ、耐えようとするとき、すべてのものが、一切のものが、苦しむからです。それに、耐えられないというものが、一斉に動き出し、恐ろしい神を、呼ぶのです。

ハルシャギクは、それを知っている。そして、その仕事を、手伝っているのですよ。いつかきっと、わかるでしょう。

やってくる。恐ろしく怒っているものが。

愛が、耐えてはいけないことを耐えようとするとき、それがやってくる。とうとう、やってくる。

アフラ・マズダが、やってくる。

にんげんが、とっくに死んだと思っていた、神が。




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