ウルビーノのヴィーナス ティツィアーノ・ヴェチェリオ
Titian (Tiziano Vecellio) ( 1488-1567)
横のカテゴリーの欄を見たら、アートの小箱のカテゴリーが少なすぎるような気がしたので、今日はこれを書いてみることにしました。
ティツィアーノは、ジョルジョーネと並んで、16世紀イタリア、ヴェネツィア派を代表する画家です。ジョルジョーネは夭折しましたが、ティツィアーノは彼の分まで長く生き、画家としては最高の幸福な人生を送りました。
麗しい色彩と絶妙な技術で描く人物が、素朴な職人技であった初期ルネサンスの絵画を、より高く芸術に高めた。彼によって、レンブラント、ベラスケスなどの画家が影響を受け、近代美術の先駆者のひとりとなりました。
横たわる裸婦の系統を最初に作ったのは、ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」ですが、このウルビーノのヴィーナスはその彼の絵の構図を借用する形で描かれています。こういう絵画での引用が、当たり前に行われるようになったのも、これくらいからじゃないでしょうか。これから、ゴヤの「裸のマハ」とか、マネの「オランピア」ができた。
ヴィーナスを横たわらせて眠らせたのには、もちろん男性の中の性的意図があります。ボッティチェリのヴィーナスは、それはそれは美しく、幼児的な素朴ささえあり、性的対象にはちょっとなりえない。美の女神そのものですが、ジョルジョーネは、やはり、女神様に、眠ってもらって、自分の相手をしてもらいたい、という意図があったんでしょうね。つまり、ジョルジョーネによって、ヴィーナスは女神から、人間の女性に近づいたのです。
横たわる裸婦(ヴィーナス)の系譜には、男性の女性への、矛盾した心が結晶している。美しいものをたたえたいと同時に、苦しいほど殺してしまいたい。
マハにしろ、オランピアにしろ、かなり男性の苦しい本音が見え隠れしているのですが、しかしこのティツィアーノのヴィーナスは、少し違います。彼はこの裸体画を、仕事で描いている。好きで描いているのではない。どういう状況で描かれたのかはわからないのですが、そんな気がするのです。
裸体の美女よりも、足元の犬のほうが、かわいらしく、画家が安心して描いている。そんな風に感じるんです。画家は、神聖ローマ帝国やスペインなどに招かれて、画家としては最高の栄誉を得ましたが、本音では、苦しかったのではないか。ほんとうはジョルジョーネのように、世間にはあまり認められずとも、自由に自分らしい絵を描いて、さっさと死んでしまいたかったのではなかったか。ジョルジョーネの死後、ティツィアーノが彼の未完の作品を数多く完成させているのも、彼の人生がうらやましかったからではないかとさえ感じるのです。
ほら、このヴィーナスも、美しいですが、目顔が、「いやだ」と言ってるように感じるでしょう。背後の二人の人物も、背中を向けています。まるで、こんな絵はいやだ、と言っている彼の気持ちを代弁しているかのようだ。本当は、彼は、もっとちがう絵を描きたかった。
ではなぜ、ティツィアーノはジョルジョーネのように生きることができなかったのか。それはやはり、うますぎたからです。ジョルジョーネよりも、ずっと、うまかったからです。彼にはできることがたくさんあった。それをしないわけにはいかなかった。
彼が美術史に果たした影響は大きい。彼によって、絵画は大きく成長した。芸術家たちの技術と表現が、爆発的に進歩したのです。
マネのオランピアは、ティツィアーノのヴィーナスの最高の孫ですね。あれ以上の傑作は、今のところ見当たりません。モディリアーニなども、たくさんの横たわる裸婦を描いてるけど、あれ以後、あれを越えるものが出てこないなあ。要するに、オランピアは、横たわるヴィーナスにこめられた男性の本音を、あからさまに暴いたのです。
こういうマネの仕事も、ティツィアーノがしてくれた仕事があったから、できたわけです。こんな風に、ほんとにすごい本物は、思いもしないところに隠れていたりする。
うますぎて、好きではなかった画家なんですが、最近、絵の中の彼の声に気づいて、すごいな、と感じるようになってきました。
Titian (Tiziano Vecellio) ( 1488-1567)
横のカテゴリーの欄を見たら、アートの小箱のカテゴリーが少なすぎるような気がしたので、今日はこれを書いてみることにしました。
ティツィアーノは、ジョルジョーネと並んで、16世紀イタリア、ヴェネツィア派を代表する画家です。ジョルジョーネは夭折しましたが、ティツィアーノは彼の分まで長く生き、画家としては最高の幸福な人生を送りました。
麗しい色彩と絶妙な技術で描く人物が、素朴な職人技であった初期ルネサンスの絵画を、より高く芸術に高めた。彼によって、レンブラント、ベラスケスなどの画家が影響を受け、近代美術の先駆者のひとりとなりました。
横たわる裸婦の系統を最初に作ったのは、ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」ですが、このウルビーノのヴィーナスはその彼の絵の構図を借用する形で描かれています。こういう絵画での引用が、当たり前に行われるようになったのも、これくらいからじゃないでしょうか。これから、ゴヤの「裸のマハ」とか、マネの「オランピア」ができた。
ヴィーナスを横たわらせて眠らせたのには、もちろん男性の中の性的意図があります。ボッティチェリのヴィーナスは、それはそれは美しく、幼児的な素朴ささえあり、性的対象にはちょっとなりえない。美の女神そのものですが、ジョルジョーネは、やはり、女神様に、眠ってもらって、自分の相手をしてもらいたい、という意図があったんでしょうね。つまり、ジョルジョーネによって、ヴィーナスは女神から、人間の女性に近づいたのです。
横たわる裸婦(ヴィーナス)の系譜には、男性の女性への、矛盾した心が結晶している。美しいものをたたえたいと同時に、苦しいほど殺してしまいたい。
マハにしろ、オランピアにしろ、かなり男性の苦しい本音が見え隠れしているのですが、しかしこのティツィアーノのヴィーナスは、少し違います。彼はこの裸体画を、仕事で描いている。好きで描いているのではない。どういう状況で描かれたのかはわからないのですが、そんな気がするのです。
裸体の美女よりも、足元の犬のほうが、かわいらしく、画家が安心して描いている。そんな風に感じるんです。画家は、神聖ローマ帝国やスペインなどに招かれて、画家としては最高の栄誉を得ましたが、本音では、苦しかったのではないか。ほんとうはジョルジョーネのように、世間にはあまり認められずとも、自由に自分らしい絵を描いて、さっさと死んでしまいたかったのではなかったか。ジョルジョーネの死後、ティツィアーノが彼の未完の作品を数多く完成させているのも、彼の人生がうらやましかったからではないかとさえ感じるのです。
ほら、このヴィーナスも、美しいですが、目顔が、「いやだ」と言ってるように感じるでしょう。背後の二人の人物も、背中を向けています。まるで、こんな絵はいやだ、と言っている彼の気持ちを代弁しているかのようだ。本当は、彼は、もっとちがう絵を描きたかった。
ではなぜ、ティツィアーノはジョルジョーネのように生きることができなかったのか。それはやはり、うますぎたからです。ジョルジョーネよりも、ずっと、うまかったからです。彼にはできることがたくさんあった。それをしないわけにはいかなかった。
彼が美術史に果たした影響は大きい。彼によって、絵画は大きく成長した。芸術家たちの技術と表現が、爆発的に進歩したのです。
マネのオランピアは、ティツィアーノのヴィーナスの最高の孫ですね。あれ以上の傑作は、今のところ見当たりません。モディリアーニなども、たくさんの横たわる裸婦を描いてるけど、あれ以後、あれを越えるものが出てこないなあ。要するに、オランピアは、横たわるヴィーナスにこめられた男性の本音を、あからさまに暴いたのです。
こういうマネの仕事も、ティツィアーノがしてくれた仕事があったから、できたわけです。こんな風に、ほんとにすごい本物は、思いもしないところに隠れていたりする。
うますぎて、好きではなかった画家なんですが、最近、絵の中の彼の声に気づいて、すごいな、と感じるようになってきました。