子曰く、君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す。(里仁)
訳)○先生はおっしゃった。君子は言葉少なく、行動は鋭く正しくありたい。
このほかにも、「巧言令色鮮し仁」などと、口のうまさを戒める言葉が、論語にはたくさんあります。言葉には、いかにも嘘が混じりやすいことを、孔子は知りすぎるほどに知っていたのでしょう。口のうまい人間が、どのようにして嘘でうまいことをするか、苦々しく見ていたのでしょう。
言葉には嘘が混じりやすい。人間は平気でまことしやかな嘘をつき、それもまた、完璧にやりとげ、まったく嘘が本当であるかのようなことにしてしまうこともできる。おそろしい嘘をついて、あらゆるものを、苦しめてしまうこともあるのです。
人間は何でも、くだらぬつまらぬものにしてしまい、自分はこんなことがわかっているから、賢いんだぞというポーズをとります。そして他者の価値を低め、自信を失わせ、自分が自由に使える道具にしようとする。要するに、おまえは阿呆だぞと、うそをついて、自分に従わせようとする。それが、人間の、一番基本的な嘘なのです。そうやって人間を何もわからない阿呆にしてしまえば、自分がえらくなれるからです。
そして、その阿呆どもをつかって、あらゆることをしてきた結果が、この世界です。うそが本当になり、あまりに苦しいことばかりある世界になった。人類はみな、人類は馬鹿だと思っている。いつかえらいことになると思いながら、すべてわからないことにして、いつまでも苦しい阿呆をやっている。人間はそういうものになってしまった。
遠い昔、誰かが、何気なく言ったに違いない。「おまえは阿呆だぞ」という小さな嘘が、いつしかここまでのことになった。世界が、阿呆になった。
孔子が繰り返し、口説の恐ろしさを戒めているのは、嘘がどういうことになるのかを、知りすぎるほどに知っていたからでしょう。それを人間は知らずに、あまりに軽く嘘をつく。彼の苦悩は、計り知れない。絶望的だと思ったことも、多々あったに違いない。
真実はことばよりも、行動の中にあると、孔子は言いたかったのだと思います。言っていることよりもまず、やっていることを見ろと。それならば、間違いは少なくなる。行動で、嘘をつくことは、ことばよりもずっと難しいからです。その人の真実は、行動に出る。一見、どんなにいいことをしているように見えても、嘘が混じっていると、ひどく苦しく感じる。なぜなんだということをして、それを何度もいいわけせねばならない。それはとても美しくは見えない。
愛は、言葉でいうよりもまず、行動しようとします。子供が転んだら、口よりもまず手が動く。見ていた人はすぐ手を差し伸べる。抱き起こそうとする。それが当たり前のように。
やっていることを見ていれば、それが真実かどうかは、わかる。真実は言葉よりも、行動に出る。それを見ていけば、嘘は容易に見分けられる。
孔子はいつも、鋭く、人間を見ていたんでしょう。