ビーストが騒いでいるので、どうしてもブログがざわついた感じになって、わたしも少々不快なので、さっそく更新です。ほんとにもう、忙しいですね。でも、読者の方々には、おもしろいかなあ。コメントも書きようがない内容ですが、おもしろかったら、かえるちゃんの晴れマークで投票してください。
ほかにはべつになにも書かなくていいですからね♪
さてと。
鏑木清方 ~明治のおもかげ
学習研究社 2004年
巨匠の日本画シリーズ10巻のうちの、6巻目だそうです。いつもいく本屋さんにこのシリーズが並んでいた中で、これが一番気にいって、すぐに買い求めました。女性を描いた絵が本当に美しかったのです。
ほかにも、菱田春草だとか小倉遊亀だとかそうそうたる名前が並んでいたのですが、背表紙を見て、この鏑木清方という名前だけが、わたしの心に飛び込んできたのです。それで手にとって眺めてみましたら、なるほどと思いました。これは、ほんとうに、美しい仕事です。
絵の中の女性が、しんでいるのに、生きている。これがわかりますか。つまり、女性が、耐えがたいことを耐えるために、自分を殺して、いろいろなことをよいことにするために、なにもかもを黙って、生きている。そういう女性の魂の苦悩を画家がよみとって、静謐な筆で描き切っているのです。これがほんとうに美しかったのです。
画家はもちろん、男性です。男性が、女性の苦しみを理解し、何も言えないまま、筆でその美しさを描き切ることによって、最上の仕事をしたのです。これがわかる女性は、きっといたことでしょう。男が、女の苦しみを理解してくれていると、これを見た、心ある女性は、わかったことでしょう。
絵でしか、その心を表現できないのだとわかって、女性は何も言わなかったでしょう。男は、どんなに、女がいとおしいと思っても、馬鹿になってえらそうにしなければいけない。それが、いかにおろかであるかを知っていても、誰にも言えない。その男の苦しさを、女性は理解したでしょう。
もちろん、作品の中には、商業目的で、着飾った女性をこれでもかとばかりうつくしくあでやかに描いているものもあります。それもそれですばらしい。そこには、二重写しになった自己の構造が見える。
19世紀から20世紀に移る時代、早くも、現代の自己の構造のひな型ができはじめている。それはどういうことか。要するに、自己の内部に、仮の主座と、奥の主座の、ふたつの座席を作るということなのです。嘘ばかりの世界を生き切るために、人間が、自分の魂に、別の部屋を作り始めている。つまり、ほんとうの自分がいる部屋と、仮のお客にいてもらう部屋と。
本当の自分が、やるには、苦しすぎる、という仕事をせねばならないとき、人間は、仮の主座にまねいた、それができる存在に、自分を一時預け、高度に痛い仕事を、やってもらうのです。つまりは、人間はここらへんから、嘘の時代を生きるための、魂の構造変化を、試みていたのです。
女性の姿に、真実の、存在の美しさを感じて描いた絵は、それはそれは、本人の魂の愛の仕事だとわかる、美しいものになっている。ですが、商業目的の主題は、ほんとうの自分を奥の主座に隠し、仮の主座にまねいた、時代を生きる嘘ができる仮の魂に、自分の絵を描かせている。この画家は、そういうことをしている。そして、かなり、うまくやっているのです。
おもしろいでしょう。絵を通して、人間が生きるためにやってきたことが、わかってくる。痛いことばかり、苦しいことばかりの世界を生き切るために、つらいことを、とても耐えられないようなことを、耐えるために、やっていたことが、見えてくる。
とんでもない嘘を、嘘と知ってやらねばならないとき、自分ではないものに、自分をやらせる。そしてその自分ではないものを、奥の主座から、絶妙にコントロールする。それを、この画家は、試みていたのです。
明治の時代に、すでにそれをやっていた人なのです。
現代、この魂の技ができる人は、かなり、います。おもしろいこと、ばかなことをしているようにみえて、ぜんぜんちがうことをしています。これは、わかったときが、おもしろい。ほんとうに、仮の主座がやっていることは、とても愚かに見えても、その奥の首座がやっていることは、びっくりするほど、おもしろいのです。
これがわかる人は、きっともうたくさんいることでしょうね。
清方の描いた女性は、男性に絶望している。それでも、愛さねばならないのだと、苦悩している。あらゆることを耐えねばならない人生を思い、遠い目をしている。それを画家は、いたましいと感じている。
本当に心ある人なら、この現実をまったく無視して、ただあでやかに着飾った美しいだけの女性を描けるはずがないのです。でも、それを、男は、やらねばならない。痛々しいほど、かわいいと思っているおんなを、おとこたちのてまえ、ばかにしなければならない。そのために、彼は、魂の構造変革をしたのでしょう。
ばかになってしまえではなく、ばかになることにたえるために、自分を変えたのです。それが、できるのです。人間は。