義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ
☆
釈尊は大きく誤解されている。彼は人を愛するなと人に教えたことはなかった。だが仏典には、愛すれば欲望が生じ、邪が起こるとして、それを乗り越え、虚無のような静寂の境地に向かえと書いてある。
それは全くの嘘である。
愛することが間違っているのなら、なぜ釈尊は人間の世界に来たのか。邪局にとらわれるとわかっていたら、人間に近寄ることもしないだろう。
自己存在にとって、愛することは、宿命よりも濃く自分の本質にかかわっている。それがなくしては、自己存在とは言えないというほど、当たり前のことなのだ。よってそれを否定することは、自分で自分を自己存在ではないと宣言することに等しい。
ではそれを宣言する者は何なのか。虚無には宣言することなどできない。自分が自己存在ではないということができるのは、自己存在に他ならない。
このような矛盾の中にいる限り、自己存在は迷妄の中をさまよい続ける。仏法は、未だに、そのような黎明期の停滞に似た域を最上のものと見ているのである。どんなにがんばっても、そこに救いはない。
釈尊はすばらしい王である。人間に高い道を教えに来ていた。だがその心が高すぎたので、人間は大きく彼を誤解した。彼の無欲なことを真似しようとして、極端に走り、自分の欲を全く否定してしまったのが、仏教のもともとの間違いなのである。
彼が無欲なのは、地上の欲というものが小さなものであることを知っているからだ。彼はもっとすばらしいものがほかにあることを知っている。だが人間はまだ若く、それを知らない。彼は、無明の闇の中で迷っている人間世界の苦しみを見て、救いに来ずにいられなかったのだ。それが王の愛というものだ。
これが邪局というのなら、人間は何を頼ればいい。
人間は学び、真実の愛の姿をつかまねばならない。