世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-07-06 07:55:32 | 月の世の物語・余編

露草の村の近くにある森の中で、一人の職人が、五人ほどの手伝いの男を連れて、一本の大きな椿の前に立っていました。
「ほんとうに、伐ってよいのですか?」男は椿の木の幹に触れつつ、言いました。するとどこからか風が吹き、椿の木の梢を涼しげに揺らしました。椿は静かに言いました。
「ええ、かまいませんよ。わたしはもう、何百年とここに立っていて、少々飽きてきましたから」
職人は、胸に痛みが走るのを感じました。木を伐るということを、こんなにも痛く感じるのは、初めてでした。でも、伐らねばなりません。伐らねば、仕事ができないからです。職人が仕事をするには、どうしても、木材が必要なのです。

職人は、自分の担当者に教えられた、樹木を賛美する儀式をすると、傍らの斧を取りました。五人の手伝いを頼んだ男たちも、所定の位置に立って準備をしました。しかしいざ斧をふるおうとすると、何かが邪魔をして、職人は凍りついたように動けなくなりました。職人は胸がつまり、一旦斧をおろしました。そして、しばし黙って椿の木を見あげた後、小さいため息を吐き、言いました。

「あなたは、昔、人間の女性だったことがあるそうですね」すると、椿の木は梢をさやさやと揺らしながら、答えました。「ええ、もうだいぶ前のことですけれど。地球で生きていたとき、とてもつらいことがあったので、その時に人間をやめてしまったのです」
職人は目を地に落とし、しばし、黙っていました。自らの罪により、六十歳くらいの老人の姿をしている職人は、この椿の木が、人間をやめた理由を、人づてに聞いて知っていました。それは女が最も苦しむことであり、男が最も恥じるべきことでした。この木は、千年も前、それはつらい目にあい、男も女も、人間がすっかり信じられなくなり、神に願い、人間の姿を捨てて、椿の木になったのでした。

「どうして、わたしに伐らせて下さいます?男を恨んではいないのですか」「恨みなど、もうどこかにいってしまいました。よほど時間も経ちましたし。もうわたしは人間ではないのだから。どうぞ、伐ってください。わたしを差し上げましょう。わたしが必要なのなら。そうして誰かのお役に立てるのなら、わたしはうれしく思います」
職人は目を閉じました。胸に込み上げてくるものがありましたが、それをぐっと飲み込み、しばし息をとめて耐えました。職人は、生きていたとき、林業を営んでいました。先祖から受け継いだ山を持っていて、山の木を伐っては売って、暮らしていました。そのとき、山にも木にも何の感謝も礼儀もせず、もののように木を扱い、ひどく横柄な態度で山や木を侮辱したために、罪を得て、月の世の露草の村に落ちました。あれから百二十年、彼は担当者に、木の気持ちや木に対する礼儀作法を教えられ、村にある工房で働きながら、森に謝罪しつつ、木の心を学んできたのです。

「生きていた頃は、何も知らず、平気で木を何本も伐っていた。でもここで、木が、本当は伐られることをとても悲しく思っていることを知った。わたしたちの暮らしは、木の悲しみの上にのっかっているようなものでした。でも、木を伐らずには、人間は暮らしていくことはできない。だからこうして、木の魂に深く感謝し、木をすばらしいものにするための礼儀作法を、人間は学ばねばならない…」
職人が言うと、椿の木は、かすかに笑い声を立て、「よく勉強なさいましたねえ」と言いました。「だいぶ時間が経ってしまいました。もういいですよ。わたしの気が変わらないうちに、斧を使いなさい」椿は言いました。すると職人は、高い椿の木を見あげ、まるで愛おしい娘を見るような目をして、言いました。「愛しています。ありがとう」すると、椿はいいました。「わかっています。わたしもあなたを、愛していますわ」

職人は、一瞬、目を鋭くし、斧の柄を持つ手に力を込めました。彼はもう何も考えませんでした。深く考えては、できぬことを、男はやらねばならないからです。職人は、はあっと声をあげ、斧を高くふるい、かん、と高い音をたてて、椿の木の幹に、斧を入れました。

何度か斧をふるうと、椿の木は、ものも言わず、あっけなく倒れました。木を伐ったあと、職人は椿に声をかけてみましたが、もう彼女の魂はそこにはいないようでした。職人は、深く頭を下げ、椿の木に感謝しました。

五人の手伝いたちの手を借りながら、職人は伐った椿の枝を払い、みなでかついで、森の中の道を歩き、村の工房の方に向かいました。伐った椿の木は、工房の広い庭の所定の位置に置かれました。そして職人は、もう材木となった椿の木に、「美しい」という意味のこもった魔法の印を描きました。そうすれば、椿の木が本当に美しく良いものになるからです。椿の木は、そうしてしばらくの間、細工物の材料として使えるようになるまで、乾燥させられるのでした。

職人が、肩のあたりに疲労をかぶりながら、工房の中に入っていくと、中では客が一人、彼を待っていました。
「やあ、お疲れ様。がんばっていますね」それは、竪琴弾きでした。彼は工房の隅の椅子に座り、職人の仲間から出してもらったお茶を飲んでいたところでした。職人は、竪琴弾きの顔を見ると、あわてて顔色を変え、言いました。「やあ、これはすみません、ずいぶんとお待たせしてしまいましたか」すると竪琴弾きはにこやかな表情で言いました。「いや、それほどでも。昨日でしたか、風が一息ぼくのとこにきて、竪琴がなおったと知らせにきてくれたので、今日来たんです。そしたら、たまたまお留守だったので」
「ああ、そうですか。本当に風とは不思議なものですねえ。出来上がっておりますよ。立派な竪琴でした。だいぶ長いこと使っていたのですね。愛が深くこもっていて、何度も指を清めないと、なかなか糸にさわれませんでした。あちこち傷んだところも、できるだけ直しておきました。弦も全部はりかえておきました」
「ああ、それはありがとう」竪琴弾きが言うと、職人は工房の奥に走って行って、竪琴弾きの愛用の竪琴を持ってきました。竪琴弾きは、竪琴を受け取ると、指で光る文字を描き、それを弦の中にしみ込ませました。その後で、ぽろんと竪琴を鳴らし、しばし目を閉じて、音の響きを確かめていました。竪琴弾きはそうやって、何度か光る文字や紋章を描いては、琴にしみ込ませ、その音の調整をしました。

「…ああ、なかなかにいいです。これで使える魔法が増える。ありがとう」
「いや、お礼を言いたいのはこちらの方です。勉強をさせてもらいました。その竪琴は、桂の木でできているのですね。それが美しいことといったらなかった。職人の愛がこもっている。こんな風によいものになったら、どんなにか、桂の木にも喜んでもらえるだろうと、思いました」

すると竪琴弾きは、目を細めて、職人に笑いかけました。「ええ、我々は木によほど助けてもらっています。感謝の気持ちは忘れてはいけない。しかし、どんなにわたしたちが木に尽くしても、木がわたしたちにしてくれることに、すっかりお返しをすることはできないのです。難しいことですから、まだお教えすることはできませんが、いずれはあなたにもわかるでしょう。ただ、神への感謝は忘れないで下さい。わたしも、一本の桂の木にこの竪琴をいただいた限りは、これで正しく良い仕事をたくさんしていかなければならぬと、思います」
「はい、そうです。本当に、良い仕事をしていかねば。木を、美しい、良いものにしていかねば」職人はしきりに恐縮しながら言いました。彼は、竪琴弾きのことを、たいそう尊敬していたのです。本当にやさしい良い人で、困ったことがあると、いつも助けてくれるからです。

竪琴弾きは、職人へのお礼として、新しい魔法の印を教えました。それは「すばらしい」という意味のある印でした。それを材木に描くと、それは本当にすばらしくよいものになるのです。

やがて竪琴弾きは、職人に別れを告げると、竪琴を背負って嬉しそうに帰っていきました。職人は、今日伐ってきた椿の材木に近寄っていくと、さっき習ったばかりの印を、その材木に描きました。

「わたしのできる限りの力で、あなたを、すばらしい琴に作ります」
職人は、まるで愛おしい恋人に愛をささやくように、椿の木に言うのでした。


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