それは、夏休みが明けたばかりの、九月の明るい晴れた日曜日のことだった。見上げると、もつれあった生糸のような白い雲が、空の青色に染み入るようにぼやけながら風に沿って流れ、まだ夏の名残をとどめた日差しが、木々のこずえの向こうから、ちらちらと輝いていた。ヒグラシが、去って行く夏を悲しんで、寂しげに鳴いていた。
わたしは、何かに気持ちをぶつけるように自転車のペダルをめちゃくちゃにこいで、傾斜角の急な道を上った。そして、舗装された道が終わっているところで、自転車と参考書やノートを入れた手提げ袋を捨て、細い山道を歩きだした。
息を切らして歩きながら、わたしは背後をひたひたと濡らす後悔の念に、できるだけ気づかないふりをしていた。今さら引き返しても遅い。たどり着くころにはもう塾は終わっているだろう。父や母の怒る顔や、教師の失望の表情が、わたしの脳裏にふと浮かんだが、わたしはそのまま歩き続けた。
だが、そんなわたしの暗い気分も、丘のてっぺんの、見晴らしのいい草原に出たとき、いっぺんに吹き飛んでしまった。そこには、木は一本もなく、青い草が一面に生えていた。草原の向こうには、山のふもとに掃き集められたようなモザイク模様の町が見え、その向こうには遠くかすんだ海があり、その海と、青く澄んだ空との間に、かすかに弓形の水平線がぼやけていた。わたしが、風景に見とれながら草の上を歩いていると、ふと、草の間に埋もれるように咲いている印象的な紫色をした花に出会った。その色は、まるで、痛い目薬のように、わたしの角膜に差しこまれた。
そうだ、これを洋子にあげよう。
わたしは突然そう思って、しゃがみこんで花に手を伸ばした。けれど茎を折ろうとして、花のやわらかさに触れたとたん、それができなくなった。なぜかはわからないが、わたしはその時、至極幸福な気分だった。今の自分なら、どんな人間にだってやさしくできるだろう。どんなことだって、してやれるだろう。その人のためなら。洋子のためなら。そうだ。洋子がここにいたら、こんどこそ正直に、思いを打ち明けよう。友達になってくださいって、言おう。
洋子の声が聞こえたのは、そのときだった。
「ここは海の底なのよ」
はっと、声の方に顔を上げると、いつからそこにいたのか、洋子が草の中に座って、わたしを見ていた。黒髪が風に踊り、つるつるの瞳が、恥ずかしそうに笑っていた。わたしも笑いかけた。何か、正体のわからない不思議な力が、わたしの奥からじわじわと湧いてきて、わたしを満たし始めた。わたしは、すいと腰を伸ばすと、それまでのわたしでは考えられないような勇気を持って、彼女に話しかけた。
「海の底って…?」
洋子は、澄んだ声で、少しはにかみながら、言った。
「立ったらだめよ。泡が壊れちゃうの。ここはね、深い、深い、海の底なのよ。わたしたちはね、ふわふわした泡の中に閉じこもって、海の底から、海面を見上げているの。魚がたくさん、泳いでいるのよ」
わたしは、しばしあっけにとられて、彼女の顔を見つめていた。だけどすぐ、これは洋子の考え出した独り遊びだと気がついて、話をあわせた。
「そうか、ごめん、じゃ、ぼくも座るよ」
わたしは、柔らかい泡を壊さないような、ゆっくりとした動作で、彼女の隣に座った。洋子は、そんなわたしの積極的な態度にちょっと驚いたようだったが、黙ってわたしが隣に座るのを許した。心臓が、どきどきと、痛むくらい鳴った。すぐそばに、洋子の白い笑顔があった。彼女の息の音が、間近に聞こえた。わたしは、自分でも、自分のふるまいに驚いていた。
一陣の風が、さやさやと草原をなで、わたしたちに吹き付けた。
「海の底にも、風が吹くんだね」
「これは海流よ。この海は、空気みたいに透明で、軽い水でできてるのよ。だから海流が風に見えるのよ」
「…ふうん」
不思議な時間だった。それまで、一度も言葉をかわしたことなどなかったのに、わたしと洋子は、小さなときからお互いに知り合っているように、山のてっぺんの草の上に座って、空想遊びをした。空も風も、みんな澄んで、輝いて、魔法のように新しく、美しかった。わたしたちは、雲や、鳥や、下に見える町を、クジラや、サメや、サンゴやフジツボに見たてた。空は遠い遙かな水面だった。雲は水面を漂う白い流れ藻だった。洋子は、水面の向こうには、見たこともないきれいな星の世界があると言った。わたしは、森や、草や、獣や、家や、人のいる、陸があると言った。すると洋子は、そっちんほうがいいね、と言って笑った。
今思えば、あれは、孤独だった洋子の、ただ一つ、心が安らぐ遊びだったのではないだろうか。彼女は、苦しいことばかりある現実から逃げて、美しい空想の中にのみ、救いを見いだしていたのかもしれない。そしてわたしは、そんな洋子の空想の中に、突然現れた、初めての他人だったのかもしれない。彼女が、わたしを見て、どうして逃げ出さずに、自分の空想の泡の中に招きいれてくれたのか、わたしにはもうわからないが。
ふと、洋子が、黙った。わたしは、いったいどうしたのかと、洋子のほうを見た。洋子は、ひざを抱いて、草を見つめながら、何かを考えているようだった。少しの間、風の音だけがわたしたちを囲んでいた。
「ねえ、さっき、何で花を見てたの?」
突然、洋子が言った。
「え? 別に……何も……」
わたしは、もぐもぐと口ごもった。すると、見る間にかのじょの目に涙がたまってきた。わたしはあわてた。何で泣くんだろう? 何も悪いことはしてないはずなのに。だけど洋子の涙は見る間に膨らんで、ひざの上にぽたぽたと落ちた。わたしはどうしたらいいかわからず、まわりをきょろきょろと見回した。すると、さっきの紫の花が、少し離れたところで、わたしに語りかけるように風にゆれているのが目に入った。わたしは言った。
「見てよ、あんなとこに、サンゴが咲いてる!」
洋子は顔をあげた。わたしは、何とかして、彼女に笑ってもらいたかった。だから、命をかけた無謀な冒険を、彼女に申し出た。
「ぼく、あれを取ってきてやるよ」
「え? でもあぶないよ。泡がこわれちゃうよ」
「静かに出ればこわれないさ」
「でも、遠いよ。息が続かなかったら、どうするの?」
「大丈夫だよ」
そう言って、わたしは、用心深く、薄っぺらな泡の壁をこわさないように、ゆっくり、ゆっくり、後ろ向きに歩いた。そして、手足が全部泡の外に出て、顔だけが残っているとき、ゆっくり深呼吸して、肺にいっぱい空気をためた。そして、冷たい透明な水の中を、潜水夫のようにぷよぷよと泳ぎながら、花に近づき、それを手折った。
再び、泡の中に戻ってきたとき、洋子は心配そうにわたしを見た。涙はもうほとんど乾いていた。わたしは、やった、と思った。
「だいじょうぶ?」
「うん」
肩でおおげさに息をしながら、わたしはうれしそうに言った。そして、紫の花を彼女に差し出した。洋子は、自信に満ちたわたしの顔を不思議そうに見上げながら、おずおずと受け取った。そして花を見つめながら、言った。
「……きれいね。何だか、光ってるみたい」
「深海に咲くサンゴだあら、光るんだ」
洋子の顔が、わたしを見て、笑った。そのとき、まるでわたしは太陽がもう一つ増えたかのように、まわりの世界が明るくなったように感じた。胸がじんじんとしびれていた。このままじっとしていると、本当に洋子を抱きしめてしまいそうだった。
「あ、ほら、見て!」
その時、急に、彼女が空をさして言った。
「エイよ! ほら、泳いでる!」
わたしは空を見た。そして、はっと、息を飲んだ。菱形の巨大な体をゆらめかせながら、一匹のエイが、わたしたちの頭の上を、ゆっくりと、音もなく、泳いでいた。
あきれるほど、静かな明るい空だった。わたしたちは、言葉も、思いも失って、呆然と、それを見上げていた。エイは、やがてゆっくりと透け始め、水色の空の中に溶けていった。
それが、一体何だったのか、わたしは今もわからない。幻だったのか、空想を、勝手に実際に見たと勘違いしたのか。だけど、これだけは確かだ。わたしは、そのとき、洋子と、同じものを見、同じ心で感じていたのだ。深い深い海の底の、誰も知らない二人だけの泡の中で、わたしたちは、ひととき、同じ魂を共有したのだ。
(つづく)