銀色の静かな湖面の上に、一艘の青い船が木の葉のように浮かんでいました。湖の上には、深い霧が立ち込めています。空を見ても、月の姿はよく見えませんが、光は白く霧に溶けて、うっすらと湖面の上を泳いでいました。船の上には、竪琴弾きと、一人の少年が、ぼんやりと立っていて、時々、ひそひそと会話を交わしていました。
「ありがとう。船を出してもらって。予測では、ここらへんでいいはずなんだが」竪琴弾きが少年に言いました。
「とんでもない。こんなことは当たり前だし。ほんと、助け合うことなんて、当たり前にやれることなんだけどな。なんで人間には、それが難しいんだろう?」
「もうすぐ彼らにもわかるようになりますよ」
竪琴弾きは、少し悲しそうに笑いながら、言いました。
「それにしても、あなたはいつも、担当する人に苦労してるみたいですね」少年がいうと、竪琴弾きは、ただ、はは、と笑うばかりでした。少年はそんな竪琴弾きの顔を見上げながら、小さく息をついて、言いました。
「ぼくもかなり苦労をしてるけど、あなたの方が大変みたいだなあ。で、その人は怪と契約してるんですか?」
「ええ、これで三度目です。前回のときに、やめなさいとは口がすっぱくなるほど言っておいたんだが。…彼は、本当は、ある田舎の村で農夫をやるはずだったんです。ところが、偉い人になりたくて、怪に頼んで、都会に生まれさせてもらって、今、あるところの市長をやってます。けれど、彼には農夫はできるものの、市長なんて難しい仕事ができるはずありませんから、やれもしない嘘ばっかりを言ったあげくに、結局は何にもできなくて、言い訳程度のことばっかりをやっているうちに、それが大変なことになって、責任を負い切れなくなって、とうとう、何もかも投げ出して、途中で自分の人生から逃げ出して、帰ってくるんですよ」
「よくあることですね。人間は時々、途中で自分の人生が嫌になると、まだ生きてるのに、こっちに帰ってくる。あとの人生は怪に奪われるか、そのまま空っぽになって、心臓が萎えて死んでしまう」
竪琴弾きと少年は、霧の空を見上げながら、風の具合を読みました。「…まだみたいですねえ。そろそろだと思うんだけど」少年が言いました。すると竪琴弾きが言いました。「ためらっているのかもしれませんね。怪に対する負債のこともありますし、今度こそそれを払わなくちゃいけないと思うと、怖いのかもしれない」「…毎度のこと、後々のことを考えて、物事をやってくださいって、ぼくもよく言ってます」「へえ、君もですか」「そりゃもう。ぼくの担当する人には、男の人が圧倒的に多いんだけど、いつもおんなじことばっかり言わせられます。とにかく、悪いことはするなって。嘘はつくなって。後が大変なことになるからって」「気持は痛いほどわかりますよ。御同輩」竪琴弾きは笑いながら言いました。その笑い声は、静かな湖面に響いて、かすかな波紋を描きました。
ふと、風の音が変わりました。竪琴弾きは竪琴をかまえました。
「や、来ますね」少年が言うと同時に、霧の空の向こうから、ひゅう、という音が聞こえてきて、突然、何か黒い岩のようなものが、銀の湖面の上に、ばしゃんと、大きな水しぶきを立てて落ちました。
「お、来た来た」竪琴弾きは、びんと竪琴を鳴らしました。すると、水の上に、黒い寝間着姿の男が、ぽっかりと頭を出して浮かび、茫然と目を見開きながら、周りを見回していました。竪琴弾きは少年に頼んで、ゆっくりと船を、その男の方に寄せてもらいました。
「やあ、ひさしぶり。五十三年ぶりですか」竪琴弾きが声をかけると、水に浮いた寝巻姿の男が、はっと竪琴弾きの顔を見上げ、あっと声をあげました。「あ、お、おまえは…」
「やあ、おぼえていてくれましたか。またやりましたね。あれほど言ったのに。でも、あなたはまだ、生きてるんですよ。途中で人生を投げだしちゃいけない」
すると男は、おどおどと目を揺らし、竪琴弾きに言いました。
「お、おれは別に悪いことはしてない。なんでもないんだ、あんなこと。ふつうみんな、やってることだし。べ、別に、馬鹿なことをしたわけじゃ…」
竪琴弾きは、困ったように笑って、一つ息を吐きました。そして、下の方を指差し、水の中の男に、湖の底の方を見るように言いました。男が、湖の底を見てみると、そこには大きな大きな白い水蛇がいて、静かにとぐろを巻いて眠っているのです。男は声にならぬ悲鳴を上げて、あわててばしゃばしゃと手足をもがかせ、船の方に泳いできました。
竪琴弾きは、船の舳先につかまって震えている男に、言いました。
「いいですか。あなたは死んだ後、今の時点では、ここに落ちる予定です。あの水蛇に、何百年かの間、湖の中で追いかけられるはめになります。あなたは、ずっと湖の中を泳いでいなければなりません。そうでないと、水蛇に食べられてしまいますから」
それを聞くと男は、目をまるまると見開いて、言いました。
「おれは、そんな、何もしてない! な、なんにも、悪いことなんか…」
「とにかくです。冷たいようですが、最近は月の世の道理もかなり厳しくなっていましてね。途中で自分の人生からやすやすと逃げられないことになってるんです。あなたには、今から地球に帰って、最後まで自分の人生をやってもらわねばなりません」
それを聞くと、男は一層青ざめました。男はもう、自分の人生が嫌になっていたからです。何をすることもできないのに、大きなことばっかりを言ってしまって、これからそれを全部やらなければいけないと思うと、もう本当に自分がいやになって、人生から逃げてきたのです。
茫然と目を見開いたまま、何も言えないでいる男に、竪琴弾きは、真剣なまなざしをして、言いました。
「いいですか、一つだけ、言ってあげます。自分を偉いと思って、人を馬鹿にしてはいけません。自分を偉くするために、他人をいじめたり、いやしめるようなことを言ったりしてはいけません。人には、丁寧な言葉で、やさしいことを言いなさい。そうすれば、誰かがあなたを助けてくれます。できないことでも、すっかりとはいきませんが、ある程度、なんとかなります。いいですか。とにかく、言葉には気をつけて、なんとかやってみなさい。それだけです」
そう言うと、竪琴弾きは、竪琴を、ぼろん、と鳴らしました。すると、寝間着姿の男は、一瞬、ぎゃっと声をあげて、湖の上から消えました。
「帰りましたか」少年が言うと、竪琴弾きはしばし風に耳を澄まし、また、竪琴を、びんと鳴らしました。すると霧の中に幻が現れ、その中で、さっきの男が、暗い寝室のベッドから身を起こしたのが見えました。「や、戻ったみたいだ」竪琴弾きが言いました。幻の中で、男は頭に手をあてながら、きょろきょろと周りを見回していました。少年が言いました。「夢を見たと思ってるみたいですね。でも、さっきあなたが言ったこと、覚えているかな?」「さあねえ、覚えていてくれるといいんですが」
竪琴弾きが幻を消すと、少年は呪文を唱えて、船を動かし始めました。湖の上をゆっくりとすべる船の上で、竪琴弾きはため息のように言いました。「どうして、男ってものは、偉くなりたがるんですかねえ」「それはもちろん、女の人にもてたいからですよ」少年の言葉に、竪琴弾きは苦笑いをして、少し顔を揺らしました。少年はそんなことは当たり前だと言うように、続けました。「要するに、ああいう人たちの人生の究極の夢っていうのは、セックスだけやっていたい。他には何もしたくないっていうことですから」「ああ、それではもう、身も蓋もない」竪琴弾きは手で顔を覆って笑いながら、言いました。「…ハレムの王様ですか。なんだか、君の日ごろの苦労がわかるような気がするな」「ええ、ぼくの担当する人は、そんな人ばっかりですから。要するに、女性と遊んでばかりいる人生がいいっていう人ばっかりなんです。そのために、ほんとに、いろんな馬鹿なことをやって、結局月の世の地獄に落ちてくるんだ。そのたびに、同じことばかり言わされるんですよ。やめてください、頼むから。嘘はつかないで。ずるいことはしないで。そんなことをするから、人生が壊れてしまって、結局は全部だめになってしまうんですよって…」
少年は湖の上に船を滑らし、やがて船は緑の岸につきました。竪琴弾きは岸に降り立つと、もう一度、少年にお礼を言いました。「ありがとう。船を出してくれて、おかげでだいぶ助かりました」「いえ、できることをやるのは当たり前ですから。…ああ、それにしても。簡単なのになあ。物事をやさしく、丁寧に言って、それで、自分のできることを正直にやる。それだけで、どれだけ人生がうまくいくか。それだけのことを、どうして人間はうまくできないんだろう…」
竪琴弾きは、湖を眺めながら言いました。「悲しいからですよ。自分がまだ小さくて、勉強が足らなくて、大切なことがわからなくて、物事をうまくできないのが」「そんなこと、勉強すればいいだけだってこと、わかってると思うけどな」「わかってても、つらいんでしょう。だから、ずるいことをしてでも、どうしても、一足飛びに、大きくて偉いものになりたがる。真っ正直な本当の自分でいるほうが、幸せなのに。彼も、農夫として生きて、田舎で豆の花と暮らしていた方が、ずっと幸せだったろうに」
少年は、船から岸に降りると、呪文を唱え、青い船を一枚の小さな青い花びらに戻しました。竪琴弾きはそれを見て、言いました。
「いつ見ても、素敵な魔法だな。教えてほしいくらいだけど、君じゃなきゃできない。どうしてそんなことができるんです?」
「いや、ぼくはたまたま、できるようになったんです。ちょっとしたきっかけで、ある花と仲良くなることができて、秘密の呪文を教えてもらったんだ」
「きっかけって?」
「ほんの小さなことです。ある青い小さな花が、毛虫の怪に、葉っぱを食べられていたところを、助けてあげただけなんです。そしたら、お礼にって、花がこの魔法を教えてくれたんです」
「…ああ、ほんとうにねえ。本当の自分にできることを、やさしい心でするだけで、ものごとはみんな、そんなふうに素敵なことになっていくのにな」
「簡単なことなんですけどね」
「彼もそうやって、何とか、あとの人生をしっかりやってもらいたいものですが」
竪琴弾きは、竪琴を背中に回しながら、言いました。