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心の世界で、ビーストの嵐が吹き荒れています。彼らのやっていることがすべてゆきづまり、馬鹿なことになりきってしまったからです。その苦しさのために、彼らはまるで馬鹿なことを、まだ繰り返しています。
他人に、つらいことになってほしい、といって、ほんとうに馬鹿なことをやっています。いい人が、いいことになるのはいやだと、激しくやっています。
彼らは、人類の心の中で、叫んでいます。なぜか、叫ばないと、人類の心に聞こえなくなったのです。人類の多くが、段階がすすんだために、ビーストの霊的段階をはるかに超えてしまったがために、叫ばないと、聞こえなくなってしまったのです。彼らはもはや、遠くにいってしまった。みんな、自分たちより、えらくなってしまった。その苦しさが、たまらないと、ビーストは泣き騒いでいるのです。
人類の顔には今、ビーストがあらゆることをした苦しみの跡が残っています。美しい人の顔がゆがみ、苦悩に固まっています。ビーストは、人間たちの心の中で、ずっと叫んでいたのです。「おまえたちは、ぜんぶ、馬鹿だ」と。「まるで、馬鹿だ」「なにをやっても、あほだ」と。
人間は、彼らに、全否定されたのです。存在そのものを、まったくいやなものにされたのです。ですから、人間は、生きることが苦しくてならなかったのです。まるで、自分が、いやなものにおもえ、生きる資格のないだめなものに思え、それがために、何もできなくなり、苦しいばかりになったのです。
その、礫の嵐のようなビーストの声の中を、それでも果敢に挑み、生きていた人はいます。傷だらけになりながら、それでも自分を失わなかった人はいます。しかし、ビーストたちのやったことは、人類の限界をはるかに超えてしまっていたため、人類の段階が、進みすぎてしまったのです。耐えられないことを耐えてしまった人間が、すべて、遠くなったのです。
それでビーストたちは、あまりにも苦しくなり、あがきまくっています。いやなことをしようとして、まったく幼稚なことをします。それで馬鹿になって、つらいつらいと泣いてばかりです。
心の中で、ビーストたちはささやきます。「嫉妬しろ」と。人間たちはもはや、その相手をすることはありません。自分ではないことがわかっているからです。容ぼうや、豊かさなどで、短絡的に他人に嫉妬するほど、もう自分は馬鹿ではないとわかっているからです。嫉妬で、人間を苦しめようとするのは、まだ幼い段階の魂だけです。もはや、わかりきっていても、それだけしかできない、ものなのです。
ビーストは嫉妬します。嫉妬だけで生きています。それのみのものといっても、過言ではありません。人間はもうそれを知っています。
遠い昔は、人間も、ビーストも、同じものでした。みな幼く、馬鹿なことばかりしていました。よって、二者は、同じ罪を共有しています。
これを、原罪の影と言います。人間も、ビーストも、この影を持っています。それは、総合的にいえば、神様を馬鹿にしたということなのです。
人間も、ビーストも、これがいちばんつらいのです。神様を、馬鹿にしたことがある。その罪の影を、みなずっと引きずっています。そのために、ずっと、苦しいのです。
ビーストはこの罪から逃げ続け、神の愛を侮辱し、無視し続けてきました。しかし、学びをやってきた人間は、苦しさを通して、愛を学び、神に心開くことを、やっとできるようになったのです。神の愛に気づき、自らやっていくことを、自分で決められるまでになったのです。
愛のすばらしさに、存分に甘えても許される、その理由がわかったのです。それは、人間もまた、すばらしい愛だということなのです。だからこそ神は、なんでもやってくださり、すべて、助けて下さるのだと。それが、当たり前なのだと。
わたしたちは、すばらしいものなのだと。
人間は、愛の空に飛び立てる、翼の準備ができたのです。そして、やりはじめているのです。
もはや、こどもではないのです。