世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

なんじはその羊を愛しむ

2007-09-01 10:38:16 | てんこの論語

子貢、告朔の餼羊を去らんと欲す。子曰く、賜や、なんじはその羊を愛しむ。われはその礼を愛しむ。(八佾)
(しこう、こくさくのきようをさらんとほっす。しいわく、しや、なんじはそのひつじをおしむ。われはそのれいをおしむ。)

訳)○子貢は、ついたちの儀式に、祖先にささげるいけにえの羊を、やめたほうがいいといった。先生はおっしゃった。子貢よ、おまえは羊を惜しむのか。わたしは、儀式にこめる人の心を惜しむのだ。

告朔の儀式というのは、周の時代に行われていた儀式で、天子が前年に暦を定めて諸侯に配り、諸侯がそれを元に、毎月の一日にいけにえをささげて月の初めを祖先に報告する、という儀式だったそうです。けれども孔子の時代には、その儀式も形骸化してすたれ、一日にいけにえの羊をささげるだけになっていた。子貢は、それも必要ないから廃止しよう、などといったのを、孔子がたしなめた言葉です。

古いことは、なんでもだんだんと廃れていくものですが、人間は何でも、古臭いものは面倒くさいと、捨てたがる。それはたぶん、人のいうことを聞くのが苦しいからなんです。なんでも言うとおりにしなくちゃいけない、というのが、正直、いやなのです。だから、多くのものは、いやだといって、やめてしまう。あるいは、いろいろと言い訳をして、だんだんと、苦しいものにして、いつの間にかやめてしまう。古くてよいものは、こうして、この世界から去っていく。

遠い昔にあった、良いものは、こうしてだんだんと、この世界からなくなっていく。そして人は、いやなものをなくしたつもりで、だんだんと、大切なものをなくしていくのです。

現代では、羊をいけにえにささげることなど、ひどい、などという人もいることでしょう。それが浅薄な意見であることは、スーパーにならんだ豚肉のパックを見ればわかる。この世界はだんだんと便利に、よくなっているようで、どこかが致命的に腐っている。それは、古くて大切なものを、苦しいといって、なんでもかんでも、つぶしすぎてきてしまったからです。

祖先にいけにえをささげるのは、目に見えない祖霊たちが、自分たちを助けてくれていると、みなが信じていたからでした。そしてその心に、お礼をするべきだという、愛からきたことだったのです。だれが決めたのかは知らない。けれども人はその頃、大切なことを、心から敬うということを知っていたのです。だから孔子は、子貢の言葉に嘆息しながら、おまえはまるでわかっていないと、言ったのです。

心を大切にする。愛を大切にする。そういう意味のこめられたことを、現実的、効率的には必要ないといって、ことごとくつぶしてきた結果、人類は、あらゆるものを失ってしまった。何もなくなってしまった。何もわからなくなってしまったのです。

愛がすべてを支えているということを、人間は完全に、仮構の向こうのゴミ捨て場にガラクタのように壊して、捨ててしまったのです。あまりにもむごいことをしてしまったのです。

なんでもないことでも、苦しい、いやだといって、捨ててしまう。そればかりやってきたことの結果が、これなのです。

愛が、あまりにも苦しいものになった。それがなければ生きていけないのに、人は、愛を正直に必要だといえなくなった。だから、あらゆる知恵と手管を使って、愛をだまし、愛を搾取するようになった。そして、すべてが、阿呆になった。人類は、阿呆ばかりやるようになった。

大切なことは、何気ないものの中にある。もうやめましょう。あらゆるものを、苦しいといって、だめにするのは。すべてを大切にする。あらゆるものに、美しい意味を見出し、微笑み、愛していく。それがすばらしいことだということに、もうそろそろ、みな気づき始めています。

あまりに苦しかった。ほんとうに辛かった。もう、愛に帰ろう。夢幻は、終わった。

わたしたちはみんな、馬鹿だった。



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