マズダー・アフラよ、御身のよき王国に、われらはいつの日までも到達していたいものです。男子であれ、女子であれ、よき支配者のみが両界においてわれらを支配してほしい。世にあるものどものうちにて最も恵み深き御身よ。
アヴェスター
☆
ザラシュトラはゾロアスター教の開祖だが、現代に名の残る天使の中では、クフと舜の次に古い名である。正義の神アフラ・マズダーを最高神とし、世界では善神と悪神の戦いが展開されるが、最後は善神の勝利で終わるとされた。
このような正義の神は、悪を許す馬鹿のわがままが、限定的でありながらも大幅に許される民主主義世界では、勧善懲悪のテレビドラマの中に飼われる滑稽な馬鹿者の夢にされる。
正義を真正面から主張すれば、どんなに美しい人間でも、大勢の馬鹿に総攻撃をされ、無理矢理道化に落とされて、途端にたまらないことになる。それが現実というものなのだ。長いものには巻かれろで、馬鹿の無言の支配に、上手に従うもののほうが賢いのだ。
表向きには、社会を支える善良な市民の顔をして、酒場の陰から入れる嫌なところで、法律の網目の隙を作り、獣のようなエゴを満足させている。そういう馬鹿者のほうが正しいのだ。人間など、所詮悪いことをする感情を我慢できない、糞のようなものなのだから。
だが、正義が廃れてしまえば、人間はまさに糞になる。正義を真っ向から否定する馬鹿は、馬鹿が世界を支配し、なんでもわがままが通用する永遠の幸福の国をつくろうと、やっても何もならないことを繰り返す。悪は人間を苦しめるものゆえに、苦しみがあらゆる反動を産み、世界に魔道が広がる。馬鹿の野望は何度やってもすぐに反動を浴びて崩れる。そして同じことばかりを何千回と繰り返し、そのたびに増えてくる罪量に溺れ、我を見失い、破滅の坂を猛スピードで落ちていくのを、隠れた善神たちが支えてくれていることにすら、気付かない。
善神の支配とは、悪神の支配とは違う。悪神などというものは存在しないが、それに等しいほど大きく見える悪のこう勢が、世界を支配しようとするとき、世界は滅亡に大きく傾き、人々は自己存在の真実の幸福をめったやたらに痛めつけられる。あらゆる拷問が起こる。
善神の支配とは、真実の正義が馬鹿を圧倒することだ。正義は幸福を保証する。人民の真実の魂が活動できる世界を、営々と作って行ける世界への入り口を開く。
アフラ・マズダーの復活こそが、人類を真の幸福に導くだろう。
そして人間は、マズダーの正しい使いを、政治家に選べる体制を作らねばならない。
アンドレア・デル・サルト
*
たくさんの女性に対する称号の中で、男性にとって最も高い称号がこれです。
母よりも娘よりも女王よりも高い。
これ以上の女性は、男にとっては存在しないと言っても過言ではないのです。
イアサント・オーブリー・ルコント
*
酒神バッカスが愛したという娘。
酒と女性の関係は深い。
それには男の目論見というものも含まれています。
美しい娘を、酔わせてからめとってしまいたい。
だが、それに引っかかる女性は、あまりいないのです。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
スッタニパータ
☆
釈尊は大きく誤解されている。彼は人を愛するなと人に教えたことはなかった。だが仏典には、愛すれば欲望が生じ、邪が起こるとして、それを乗り越え、虚無のような静寂の境地に向かえと書いてある。
それは全くの嘘である。
愛することが間違っているのなら、なぜ釈尊は人間の世界に来たのか。邪局にとらわれるとわかっていたら、人間に近寄ることもしないだろう。
自己存在にとって、愛することは、宿命よりも濃く自分の本質にかかわっている。それがなくしては、自己存在とは言えないというほど、当たり前のことなのだ。よってそれを否定することは、自分で自分を自己存在ではないと宣言することに等しい。
ではそれを宣言する者は何なのか。虚無には宣言することなどできない。自分が自己存在ではないということができるのは、自己存在に他ならない。
このような矛盾の中にいる限り、自己存在は迷妄の中をさまよい続ける。仏法は、未だに、そのような黎明期の停滞に似た域を最上のものと見ているのである。どんなにがんばっても、そこに救いはない。
釈尊はすばらしい王である。人間に高い道を教えに来ていた。だがその心が高すぎたので、人間は大きく彼を誤解した。彼の無欲なことを真似しようとして、極端に走り、自分の欲を全く否定してしまったのが、仏教のもともとの間違いなのである。
彼が無欲なのは、地上の欲というものが小さなものであることを知っているからだ。彼はもっとすばらしいものがほかにあることを知っている。だが人間はまだ若く、それを知らない。彼は、無明の闇の中で迷っている人間世界の苦しみを見て、救いに来ずにいられなかったのだ。それが王の愛というものだ。
これが邪局というのなら、人間は何を頼ればいい。
人間は学び、真実の愛の姿をつかまねばならない。