教育再生会議の幕引き、グランドプリンスホテル新高輪が高裁の判決に反して日教組の教育研究全国集会初日の全体集会への会場提供拒否などについて可なりのブログがこの問題を取り上げている。
「教育」は私の追求しているテーマの一つなので、その主なものを勉強させて貰った。
その中で私の眼を惹いたのは、天木 直人さんの時の政権とあまりにも近すぎる危うさだった。
天木さんは安倍首相の肝いりで出来た教育再生会議が、福田首相に最終報告書を提出して役割を終えたにことについてその幕切れから学ぶべきことが多いと書れている。
確かに天木さんの言う通りだ。
天木さんが指摘されたように、同会議の答申は安倍さんの意向に沿った答申のように見えた。
教員の資格制度の見直し、公立中小学校のバウチャー制度など学校や教師の管理中心の答申で、私は何度か教師が働きやすい環境も作るべきだとブロクに書き、同会議の世話役の山谷えり子さんにも投書した。(後記参照)
然し、再生会議の答申の中でも、ゆとり教育の見直し、教育についての親の主責任の明確化、コミュニティーの教育への参加、道徳の教科化、小学校への理科や算数、体育などの専科教員の配置、大学の全授業の30%の英語による実施など、批判されてきた教育の素人の集まりならではの斬新な然も的を得た提案だったことは評価すべきだと思う。
とにかく教育再生会議は終わった。
そして後に残ったのは、文科省関係の審議機関は中央教育審議会と、再生会議の終了でほくそ笑んでいる?日教組だ。
私は天木さんの言われた言葉を借りると、今こそ残った中教審もあまりにも文科省に近い危うさを何時も自覚すべきだと思う。
[文科省、中教審と日教組の関係]
文科省、中教審と日教組の関係はWikipedia の日本教職員組合の歴史を見れば一目で判る。
・(日教組は)1950年の朝鮮戦争以降「逆コース」政策に対して政府批判を強めていき、特に55年体制下の対立構図が明確になって以来、日教組は政府・自民党とは対立関係にあった。そのため、文部省とも対立の歴史を歩むことになる。
・1972年、槙枝元文が日教組のトップである委員長に就任。同年、日教組は「学校5日制」「ゆとりある教育」を提起。
・1995年、自民・社会・さきがけ三党連立による村山内閣の誕生により、長年対立関係にあった文部省との協調へと路線を転換。
・1996年、文部省・中教審委員に日教組関係者が起用され、「ゆとり」を重視した学習指導要領が導入された。
・2007年、安倍晋三首相のもと「教育再生」と称して、ゆとり教育の見直しが着手されはじめた。しかし日教組は、ゆとり教育を推進すべき」という考えを主張している。
つまり当時の文部省は日教組の提唱する「ゆとり教育」の受け入れで、長い間の対立から協調路線に転換し、中教審委員に日教組関係者を受け入れたのだ。
だから天木さんの言われるように文科省の影響下にある中教審が日教組と協調路線にあるのも当然だし、日教組が反対する道徳教育の教科化に同調するのも容易に理解できる。
[道徳教育の教科化]
国語、算数のような教科には(1)点数での評価(2)教員免許(3)検定教科書-の3条件が必要とされるそうだ。
ここで一番問題になるのは、点数の評価で、このため却って生徒の道徳心が低下するなどの訳の判らない新聞社説なども見かけた。
私は経験から言えば、昔の修身の評価は乙が主で甲の評価は殆どなかったが、本人も親も全く気にしなかった。
多分今の子供の進学に懸命な親は昔の親以上に気にしないと思う。
然し、これが問題なら国語、算数と性格が全く違うのだから、評価など止めれば済むことだし、進学の際の内申書の項目から外せば済む事だ。
そしてそれが条件に合わないから教科でないと言えば教科だと宣言すれば済む事だ。
大事なのは道徳や躾け教育を強化することだ。
検定教科書が国の価値観の押しつけと言う人もあるかも知れないが、思いやり、規則を守る、正直、など反論の余地のない徳目も数限りなくある筈だ。
中教審は、モラルの低下、家庭内殺傷事件の続発、凶悪犯罪の増加を全て国家や大企業の責任にし、道徳教育を直ぐ軍国主義化に結びつけたがる日教組の主張に遠慮しているとしか考えられない。
道徳教育の強化は一刻も猶予はならない問題だ。
審議会はまず如何に社会の劣化やモラルの低下、家庭での躾け不足をどうすれば良いかと言う前提で文科省の諮問がなくてももっと前向きに考えて貰いたいものだ。
[ゆとり教育について]
今までの中教審の答申については首を捻ることばかりだ。
ゆとり教育→学力低下→小学校に英語導入→授業時間数の増加
全く主旨一貫していない。
全て文部省または文科省の諮問の追認ばかりだ。
ゆとり教育を何故日教組が推進してきたか。
それは「ゆとり教育」と密接に結びついている「学校5日制」のためだ。
「ゆとり教育」発足後あるテレビの討論番組で、某日教組の支部長が、「ゆとり教育」は日教組が長い文部省との戦で勝ち取った権利だと言った。
私が日教組の本音をマスコミでで知ったのはこれが始めての最後だ。
その後「ゆとり教育」の見直しが盛んに論じられていても、教育基本法や教科書問題であれだけ騒ぎ立てる日教組の「ゆとり教育」についてのマスコミでの発言など聞いたことがない。
何しろ長い夏休み、冬休み、春休み(これらは表向きは何らかの仕事をすることにはなっているそうだが)の上に週休5日を勝ち取ったのだから。
[中央教育審議会へ]
私は中央教育審議会は「ゆとり教育」→授業時間短縮→学力低下→同延長のように大きな方針のぶれが出ない様に、また国民の信頼を得たいのなら、天木さんの言われるように、文科省とは完全なフリーの立場で、また独特の価値観を持つ日教組とも縁を切って、将来を見据えた、それこそ自由な論議をして貰いたいと思う。
「ゆとり教育」が文部省の苦渋の?決断だったことは、当時の文部大臣の苦しい説明が如何に非現実的であるかを見れば判かる思いますが、長くなりますので一先ず終わります。
もしご関心のおありの方は私の山谷えり子様へ、教育改革のためにまたはこれでいいのか中央教育審議会を見て頂くか、下記に簡単に纏めたものを見て下さい。
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<<ゆとり教育の問題点>>
問題なのはインターネットで見た元の東大総長で文部大臣であった方の説明で明らかな「ゆとり教育」の基本理念の現実からの背離だ。
理念:1.今までの内容で100点満点で平均が60点しか取れないのなら、70点に目標を下げて、全員が満点の70点を取ることにしよう。もしそれ以上の能力のある生徒は自主的に勉強させよう。
現実:人の特性として100満点の時、60点とる人は、仮に70点満点の時は50点で満足すると言う現実を無視している。
実際に起こったこと:学力低下→授業時間の増加
理念:2.「ゆとり教育」で余裕の出来た時間は自分で課題を見つけ、自学自習する。
現実:人は強制されなかったら自分で努力をしない。
生徒は厳しい入学試験があるから勉強している事を忘れている。
多くの父兄が審議会の言う余裕時間を利用して、子供を塾に通わせている現実を無視している。
実際に起こったこと:学力低下、塾に通う生徒の増加→社会格差の発生傾向
理念:3.土曜日は地域や父兄の協力を受けて、自学自習させる。
現実:地域社会、家庭の教育能力の低下の現実と、そのための現役教師の参画の必要性を無視。
実際に起こったこと:地域による教育活動するところは非常に限られている?現役の教師の不参加?
文科省がもし本気で土曜日の地域社会の教育参加を推進するのなら、その状況と現役教師の参加の割合など検証すべきだと思う。
少し意外だったのはあの有名な藤原先生が率いる杉並区の和田中学でさえ、土曜日の補習授業(地域主体でこれをやっているのも珍しいが)は同校の教師でなくて、ボランティアの大学生が教師代わりをやっているそうだ。
なお私の論旨と逆の例を思い出しました。
「七十過ぎて中学校教師」のような少し感動的な例もありますので良ければ覗いて下さい。
旧文部大臣の説明をそのまま取ると、ゆとり教育は、ある意味では教育関係者の教育の責任の転嫁、または放棄ではないではないだろうか。
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