【また、昭和を代表する作曲家が逝去された。とても淋しいね。】
遠藤実さんが12月6日に亡くなられたと言うことだ。
私にとっては思い入れのある作曲家であり、私が歌を
作ろうと思うようになったのも彼の作った歌に起因する。
過去記事にもしている。⇒「私が歌を好きになった理由」
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彼が、歌手を目指し新潟から東京に出てきたのは
昭和24年であるという。だが某新聞社主催のノド自慢に出て
落とされてプロ歌手への道を閉ざされたという。
まだ彼が10代のころの話。東京の三鷹や荻窪あたりで、
ギターを手に「流し」をしていた。腹が減ると食堂で、
サンマの開きとみそ汁だけの定食を食べた。そんなとき、
注文もしないカツ丼を黙って出してくれた
3つ年上の店の女性。後の彼の夫人であったという。
東京の下町生まれだが、小学校5年のときに新潟に疎開し、
新潟が第二の故郷になった。家が貧乏だったため
高等科2年で社会に出て働きはじめた。
行けなかった高校への憧れをメロディーにしたのが、
舟木一夫さんの「高校三年生」や「学園広場」だったという。
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こう書くと、戦後日本の苦労を一人で
背負っていたかのような半生だが、
彼の紡ぎ出したメロディーにそんな「暗さ」はかけらもない。
口ずさんでいて、故郷や子供時代がなつかしくなるのが
「遠藤メロディー」だ。いつもポケットに「故郷」を
秘めていた作曲家だったという気がしてならない。
私が小学5年生だった頃、雑誌「明星」の付録の「歌本」に
彼の立ち上げた、ミノルフォン・レコード特集が掲載された。
一期生の、千昌夫さんや三船和子さんを始め15組の新人の
歌を掲載していた。すべて彼の作曲であった。その会社での
最初のヒットは、山本リンダさんの「こまっちゃうナ」だった。
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彼は生前「我々音楽家は、絵の具を持たない画家なんです」
と語っていたという。「画家が自分の好きな色をどこかに
使っているように、作曲家も自分の好きな音をどこかで使う」と
いうのである。音楽家は自分の「音」を持たなければならないと。
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先日も「日本作詩大賞」にノミネートされた楽曲に
彼が作曲した歌もありそのメロディーは希望に溢れていた。
まだまだお元気なんだと思っていた矢先の突然の訃報だった。
76歳だったという。私の親世代だ。
服部良一氏、古賀政男氏、吉田正氏、それぞれに
「自分の音」を持った巨匠たちもすでにいない。
日本の音楽の世界ばかりでなく、文化そのものが
衰退しないか、心配している音楽好きの私である。
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【追悼の意味を込め「星影のワルツ」と「雪椿」を聴いています。】