NPO法人なごやか理事長のもとへ、I総合相談室長が入居希望者の方の実態調査の結果報告に訪れた。
机を挟んで向き合って、どちらの表情も真剣そのものである。
「90歳、要介護2の女性利用者様です。現在入居中の他法人のケアハウスからは認知症の進行のため今月中の退居を求められています。津波で自宅が流され、行き場所がありません。家族宅への転居の欲求もなし。
お話を聞いた後、『こごさは居だぐない、あんだのどこさ行ぐ』と当法人のグループホームを希望されています。」
「あんだのどこさ行ぐ、か。老若男女問わず、一生に一回でもそう言われてみたいものだね。きみにジェラシーを感じるよ。なごやかは、なごやかのある暮らしを望まれる方のためにある。ぜひ、お迎えするように。」
葬儀から戻ったNPO法人なごやか理事長は、私に川井主任と愛子CMを呼ぶよう指示した。
亡くなられたのは理事長が起業してグループホームを立ち上げた初年度の利用者様で、大震災後事情があって退居され、自宅で過ごされていたとのことだった。
二人が到着すると、理事長はこれまでについてのねぎらいと謝意を述べた。
先に愛子CMが口を開いた。
「野川トチ子様のことは、新聞の訃報欄で目にしていました。
トチ子様は私がグループホームで初めて担当した方で、仕事を覚えていく中で、多々苦戦しながらも一緒に過ごした楽しい日々を思い出します。
ある日の受診時には、トチ子様が理事長の車、私はホーム活動車で帰園するという今では笑えるエピソードも、昨日のことのように感じられます。
素っ気ない態度や、たまに見せるニヤリとした笑顔など、懐かしい思い出ばかりです。
亡くなられたことはとても悲しいのですが、故人を思い出すと、ほっこりします。」
川井主任が続いた。
「私も朝刊の訃報欄を見て、驚いていました。あまりにも長い月日が経ちましたが、振り返ってみると、初期の利用者様や同期の職員の顔は、名前も忘れずに今でも覚えています。
今残っている利用者様は清美様だけですね。
野川トチ子様だけでなく、初期の利用者様の居室内の配置、全て鮮明に覚えています。
誕生日会も忘れません。古いメンバーでしか語れないトチ子様のエピソードも沢山あります。思い出深いですね。
私が入社した頃は、グループホームの在り方さえ分からず戸惑いもありましたが、利用者様から学ぶ事が沢山ありました。
その時は、職員間や利用者様の対応も含め、悩むことはありましたが、今は客観的に周囲を見ることができている自分がいます。」
「そうか、それは成長だね。
真面目でガンコなきみがホームの現状を憂いて、新しく管理者に着任したばかりのミス・エイスワンダーへ涙ながらに訴えた時のことは、忘れられないよ。
あの方も、相当面食らったことだろう。とんでもないところへ来てしまった、と内心後悔されたかもしれない。
実際、あのあと僕は時々彼女へ謝った。
でもね、あれがあったからこそ、僕も、彼女も、きみたちも、いいホームにしようと精魂を傾け、力を尽くし、今があるのだと思う。本当にありがとう。」
「 縦田CM 様
おつかれさまです。
かえって、メールとお写真をありがとうございました。
宝物をお見せいただいてとても嬉しいです。
一つ残念なのは、縦田さんが当法人に在籍されている間に(生家近くの)桶狭間や熱田神宮を訪問できなかったこと。
これは今後の目標にいたします。
どうぞ新天地でもお二人揃っておすこやかに。
二年半、ありがとうございました。
特定非営利活動法人なごやか
理事長 井浦典行 」
「From: ケアプランセンターシグナレス 縦田 小夜子
Sent: Monday, July 01, 2019 9:54 AM
To: 理事長 井浦典行 様
Subject: 素敵な送別会とプレゼントの御礼
なごやか理事長 井浦様
おはようございます。
お疲れ様でございます。
28日には素敵な送別会とサプライズでのプレゼントを
ありがとうございました。
写真も当日中に事務局のKさんがプリントして下さいました。
送別会では大変忙しい中、理事長にお越しいただいたり
管理者が心のこもったお手紙を読んでくださったりと、
思い出に残るひと時を過ごさせていただきました。
何も知らない本市に来て、第一村人が井浦理事長であったこと、
また、勤めさせていただいた場所が「なごやか」であった幸運に、
改めて感謝しています。
自宅に花束を持ち帰り、私の宝物の「太陽の塔」の隣に飾らせていただきました。
写真を添付させていただきます。
残務処理のため、あと少しばかり出勤いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
ケアプランセンターシグナレス 縦田 小夜子 」
二年ほど前に角川新書から出版された「武田氏滅亡」という好著がある。
700ページ強の大冊なのだが、武勇の誉れ高かった武田氏が信玄公から三男勝頼へと代替わりしたのち衰退、滅亡に至るまでを時系列で淡々と記述していて、かえって飽きさせない。
長篠の合戦での大勝から七年後の天正10年(1582年)2月、織田信長は勢いの衰え著しい武田氏討伐に取り掛かる。
先陣として長男信忠が岐阜城を出てまもなく、浅間山が噴火する。
信濃・甲斐のひとびとにとって浅間山の噴火は天変地異の前触れとして古くから恐れられており、弱体化し、裏切りや逃亡が相次いでいた武田軍はさらに戦意を喪失したという。
そのうえ3月3日にはこともあろうに信忠が、人々の心の拠り所であり、勝頼の生母である諏訪姫(諏訪御料人)と縁深い(実家が代々神職を務めている)諏訪大社に火をかけ、全焼させてしまう。
そして3月11日、名門武田氏は滅亡した。
それから80日後の同年6月、織田信長と信忠は本能寺の変で横死する。
諏訪の神官は神罰が下ったのだと語ったそうだ。
先週、浅間山噴火のニュースを観て、少しだけ心配になった。
NPO法人なごやか理事長の執務室へ入って行くと、理事長が嬉しそうな表情を浮かべていた。
「午前中に小規模多機能ホーム一関の運営推進会議に出席したところ、帰り際に管理者からバースデイプレゼントにとこれをいただいたんだ。
フレッド・ペリーのハンカチーフで、チェッカー柄に大きなローレル(月桂樹)のロゴが透かしで入っている。今から40年前、白黒ツートーンのチェッカー柄が大ブームになった1979年のデッドストックかと一瞬思ったくらい、最高にクールだね。」
ひどく上機嫌だ。
私は後ろを向いて、笑いをこらえた。
それは私がホームへアドバイスしました。
ですから理事長、あなたの好みはもはや私たち職員にすべて把握されていますよ!
ツートーン・ブームの火付け役となったスペシャルズのデビューアルバム(1979年)
1979年12月、「カンボジア難民救済コンサート」のステージ