電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

亡父の被爆とヒロシマの上水道

2011年03月25日 06時01分52秒 | Weblog
一昨年に亡くなった父は、昭和20年8月に広島で入市被爆しました。父の部隊が、原子爆弾の被害地の救援のために広島市の比治山に入り、一週間滞在したために、父の半生は、原爆症の症状である血液の異常と、消化器系のガンとの闘いでした。この経緯は、すでに何度か記事にしております(*1,2)が、要約すれば、爆心地から2.2kmくらいの距離の比治山は原爆による放射性物質により汚染されていたことと、上水道を通じて飲み水も汚染されており、それが体内被曝を引き起こしたと考えられます。

同じ部隊で訓練を受けながら、広島市内に配属されていた戦友は、背中に原爆によるケロイドを残していますが、いまだにお元気のようです。これはおそらく、大きな火傷を負ったために市外に運ばれ、高度に放射能汚染された水を摂取することがなかったためではないか。直接に原爆の放射線を浴びることがなかった父は、救援の任務に就き、体内被曝を余儀なくされたのではないか、と考えています。

では、そのときの状況は、具体的にはどんな位置関係でどの程度の距離があったのだろうか。参考までに調べてみました。
広島市で古くからの浄水場といえば、戦前から不断水記録を続けている牛田浄水場があります。こちらは爆心地から数kmの距離にあり、その取水口は、大田川中流域の広島市戸坂(へさか)にある戸坂取水場だとのこと。こちらは、爆心地から5~6km離れた場所にあるようです。そうすると、父の入市被爆は、いわば福島原発事故の10km圏内で一週間滞在して活動し、高度に汚染された水を摂取したのと同様の事態だったわけで、ヒロシマでの懸命の救援作業もその危険性を知らされていなかっただけに、恐ろしいものがあります。

危険性の周知という点からすると、原発事故に関連して様々な観測結果や情報が出されているのは、たいへん良いことだと思います。浄水場から放射能検出という報道によってミネラルウォーターが売り切れたりする現象も起こっているようですが、亡父の入市被曝の状況とはだいぶ異なっており、父のように体内被曝し原爆症に苦しむような状況ではないようです。乳児はともかく、いささか過敏な反応のようにも感じます。もっとも、それは山形県に在住する者の安心感からかもしれませんが(^o^;)>poripori

いずれにしろ、避難地域に居住していた方々や、周辺地域にお住まいの方々にはなんとも迷惑で難儀なことで、早い時期に事故が終息することを祈りたいと思います。

(*1):広島原爆ドームと資料館を見学し、亡父の体験を思う~「電網郊外散歩道」2009年8月
(*2):8月19日にヒロシマに入り救援にあたった父はなぜ被曝したのか~「電網郊外散歩道」2010年8月
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