電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ひの・まどか『戦火のシンフォニー~レニングラード封鎖345日目の真実』を読む

2014年08月15日 06時01分10秒 | -ノンフィクション
七月の下旬から読んでいる新潮社の単行本で、ひのまどか著『戦火のシンフォニー~レニングラード封鎖345日目の真実』を読了、もう一度読み始めて再読了しました。往復の通勤の車中、CDでショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を聴きながら、空き時間を見つけては7番のシンフォニーがレニングラード初演を果たすまでを追う期間は、たいそう充実した気分を味わいました。

ただし、「充実した」という表現は、あまり適切ではないでしょう。なにせヒトラーを信じ、リヒャルト・ゾルゲの警告情報を無視したスターリンが、ナチス・ドイツのソビエト侵攻の備えを怠り、独ソ戦の開始によってレニングラード市民がたいへんな苦境に陥る話です。

レニングラードの指導者は、あのジダーノフです。その下にあるラジオ放送局に所属するオーケストラ、ラジオ・シンフォニーと指揮者エリアスベルグは、国内だけでなく、国外にもロシアの音楽を届ける役割を持っているために、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルのように疎開するわけにもいかず、ドイツ軍によって封鎖されたレニングラード市内に残った多くの市民とともに、取り残されてしまいます。戦火の中でショスタコーヴィチは交響曲第7番を作曲していましたが、前半の2つの楽章が出来上がったところで、レニングラード市から家族とともに疎開させられてしまいます。

一方、残されたレニングラード市民は、ドイツ軍による封鎖によって物資の補給を断たれ、食料や電力、燃料の欠乏に苦しみます。何十万人という餓死者が出るような状況では、音楽家は一兵士、一労働者として、楽器を武器に持ち替えて、前線で働くしかありません。ショスタコーヴィチの交響曲第7番は、このような中で完成します。

ところが、独ソ双方のプロパガンダ合戦の中で、言語の障壁を飛び越えて伝えることのできる、知名度の高い音楽の役割は、戦意高揚の意味でも大きなものがあります。沈黙したラジオが流すメトロノームの音は、まるでレニングラードが餓死するまでの時を刻むかのようです。ソビエト軍の反撃が始まり、ジダーノフの一言で、ラジオは再び音楽を流し始めます。ユダヤ系のバーブシキンが指導しプロデュースしてラジオ・シンフォニーに音楽家が集められ、エリアスベルグの指揮で、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のレニングラード初演に向けて準備が始まります。

ところが、当初はレニングラード初演にこだわったショスタコーヴィチも、国内初演が終わり、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルに演奏を委ねてしまうと、困難のただ中にあるレニングラード市とラジオ・シンフォニーには妙にクールというか冷淡です。少なくとも、スコアだけは送付してもパート譜は送らないというのは、レニングラード初演を歓迎し支援するという姿勢ではないでしょう。ジダーノフが嫌いなのか、封鎖され餓死者も出ているというレニングラード市でまともな演奏ができるはずがないという「見切り」なのか、あるいはカチンの森に見られるような、スターリンの周囲に高まる反ユダヤ主義の傾向を察知し、ラジオ・シンフォニーへの協力がユダヤ人への肩入れとみなされることへの保身があったのかもしれない、とさえ勘ぐりたくなります。

しかし、レニングラードのラジオ・シンフォニーは諦めません。スコアからパート譜を辛抱強く作成する作業が、ついに完成します。前線から楽員を呼び戻し、楽器を補修し、エキストラを増員し、初演に向けて練習を開始します。レニングラード・フィルが不在のため、本拠地のフィルハーモニー・ホールが使えます。そこから放送される演奏会は、ナチス・ドイツに対する反撃のシンボルとなるわけですから、おそらくは演奏会の最中に集中的な砲撃を受けるだろう。それを防ぐために、ドイツ軍の砲撃地点の詳細な地図が作られ、演奏会の前日に、ソビエト軍の集中的な反撃作戦が敢行されます。そして当日、ドイツ軍はほぼ完全に沈黙し、歴史的なレニングラード初演が行われます。



ショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」は、戦火のレニングラードで書き始められた名曲であることは確かですが、その背景はそう単純なものではありませんでした。純なものも不純なものも混じり合った、清濁を飲み込んで流れる叙事詩のような作品だと考える方が良いようです。そして、巻末に掲げられた、レニングラード初演を行った演奏家たちの名簿が、迫力を持って迫ります。本書は、数ある著者の音楽書の中でも、一読に値する、価値ある作品と言えそうです。

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