岩波新書で、海老沢敏著『モーツァルトを聴く』を読みました。1983年に読了の日付があり、26年後に再読了したものです。没後200年の記念年となった平成3(1991)年頃には、様々なモーツァルト本が出版されましたが、当時の本の中で、今も読まれているものというと、そう多くはないような気がします。1983年に発行された本書は、岩波新書という性格上、記念年による騒ぎとは一線を画したもののようで、多彩な話題を背景として碩学が多年の薀蓄を傾けた本となっています。
構成は、次のようになっています。
序章 ジュピター讃歌~天空の音楽の法則~
第I部 モーツァルトの響き
第1章 モーツァルトの響き~歴史と現在におけるモーツァルト演奏~
第2章 神童の世界~天才の道~
第3章 真贋の問題~モーツァルト的ということ~
第4章 モーツァルト讃~後世のモーツァルト
第II部 モーツァルトの作品の世界
第1章 典礼と信仰と共同体験の音化~教会作品とフリーメースン音楽~
第2章 親密な想念と生活の写し絵~歌曲とカノン~
第3章 情緒表現と劇作の美学~オペラ(その1)~
第4章 演出家と観客の解釈学~オペラ(その2)~
第5章 純音のロゴスとエートス~ピアノ曲~
第6章 親しさの伝え合いと内心の表白~室内楽曲~
第7章 技巧性と社交性のはざま~協奏曲~
第8章 祝宴の響き~セレナード~
第9章 古典派の凱歌~交響曲~
終章 オルペウスの嘆き~『レクイエム』に聴くモーツァルト
とりわけ本書第I部第1章「モーツァルトの響き」で、モーツァルトの歴史的演奏の意義を明快に簡潔に要約しており、なるほどと思いましたし、第II部第3章で『後宮からの誘拐』について、作曲者自身が語っている内容が、オペラ的表現の本質をしっかり捉え、言語表現の形でも音楽的に体現していることの指摘も、全く同感しうるものでした。作品の世界については、室内楽も協奏曲も交響曲も、今更ながら「へ~」「ほぉ~」という発見がありました。
本書の終わりを飾る「レクイエム」に関する部分、弟子のジュースマイヤーによる補作に関する記述は、さすがベテラン、碩学の言葉と感心しました。
立派な親や師匠を持った子や弟子が、親や師匠の意義を追体験する営みがあって初めて、その意義が伝承されるものと思います。子や弟子が、親や師匠ほど偉くない・うまくないという理由から、彼らによる伝承を否定してしまうのは、たしかに無残な話。たとえ不完全ではあっても、後輩が共有した感情や経験を伝承することは、意味のあることだと考えます。
構成は、次のようになっています。
序章 ジュピター讃歌~天空の音楽の法則~
第I部 モーツァルトの響き
第1章 モーツァルトの響き~歴史と現在におけるモーツァルト演奏~
第2章 神童の世界~天才の道~
第3章 真贋の問題~モーツァルト的ということ~
第4章 モーツァルト讃~後世のモーツァルト
第II部 モーツァルトの作品の世界
第1章 典礼と信仰と共同体験の音化~教会作品とフリーメースン音楽~
第2章 親密な想念と生活の写し絵~歌曲とカノン~
第3章 情緒表現と劇作の美学~オペラ(その1)~
第4章 演出家と観客の解釈学~オペラ(その2)~
第5章 純音のロゴスとエートス~ピアノ曲~
第6章 親しさの伝え合いと内心の表白~室内楽曲~
第7章 技巧性と社交性のはざま~協奏曲~
第8章 祝宴の響き~セレナード~
第9章 古典派の凱歌~交響曲~
終章 オルペウスの嘆き~『レクイエム』に聴くモーツァルト
とりわけ本書第I部第1章「モーツァルトの響き」で、モーツァルトの歴史的演奏の意義を明快に簡潔に要約しており、なるほどと思いましたし、第II部第3章で『後宮からの誘拐』について、作曲者自身が語っている内容が、オペラ的表現の本質をしっかり捉え、言語表現の形でも音楽的に体現していることの指摘も、全く同感しうるものでした。作品の世界については、室内楽も協奏曲も交響曲も、今更ながら「へ~」「ほぉ~」という発見がありました。
本書の終わりを飾る「レクイエム」に関する部分、弟子のジュースマイヤーによる補作に関する記述は、さすがベテラン、碩学の言葉と感心しました。
音楽理論的に、作曲技法的に、そして音楽的に、ジュースマイヤーの補筆がいかに稚拙なものであれ、彼ジュースマイヤーは師モーツァルトの召天というかけがえのない出来事に立ち会い、師の死に対するこの世に遺された者の思いを痛切に体験し、その哀れさ、悲しみという共有感情のうちに、師の未完の作品を補筆し、その全き成就に参与したのだ。
(中略)
ジュースマイヤーの補筆完成こそ、モーツァルトのレクイエムをして、モーツァルトの鎮魂ミサ曲たらしめるにこの上なくふさわしい行為ではなかったろうか。ひとりの人の死が、その死の瞬間に終わるものではなく、残された人たちの心の中でくりひろげられる追悼の行為、そして生者たちの魂の中への追憶として刻み込まれ、定着することによって完結することを、それは端的に示している。
立派な親や師匠を持った子や弟子が、親や師匠の意義を追体験する営みがあって初めて、その意義が伝承されるものと思います。子や弟子が、親や師匠ほど偉くない・うまくないという理由から、彼らによる伝承を否定してしまうのは、たしかに無残な話。たとえ不完全ではあっても、後輩が共有した感情や経験を伝承することは、意味のあることだと考えます。