黒猫ジジィの毎日にゃん!教室のみなさんとジジィを紹介   

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【なるせ音楽教室】

「たんたん」でなく「カタカタ」でした

2014-02-04 | 音楽子育て回想

カテゴリーは「音楽子育て回想」ですが
いつのまにか、孫育てになっております。
昨日に続いて孫のことで恐縮です。

さて孫がカスタネットでリズム遊びをしたいとき
なんと言ったか、思い出せず「たんたん」としたのですが
それは大人の感覚でした。

今日、またしたいと言い出したのでよく聞いたら
「カタカタしたい!」でした。
そうだよな 「カタカタ」の方がカスタネットらしいです。


ですが、やり始めたら

カードを並べ始めました。

出ました~。過去にもひたすら並べる男の子がいました。

その共通点は?

「鉄道ファン」

カードは列車でそれを連結させて喜んでいるのです。


まあ 音符を見慣れてくれたらそれでいいですわ(笑)

タンタンしたい!まずは楽しく

2014-02-03 | 音楽子育て回想

先々週でしたか、

そら君のリズムカルタ遊びにすこしだけ一緒にさせてもらった孫の恭一。

それを思い出したのか、私がカードを整理していたら、突然「タンタンしたい」と言い出しましたので

試しにやってみました。

 

カードを見ながらといっても見ていませんが

まずは真似から。

よくわかっていなくても

楽しいのが一番ですね

 

娘も3歳になったころから

リズム遊びをしていました。

それを孫を相手にするなんて、

年月の経つのは早いことしみじみ思うまもなく

 

やる気満々の孫でした。

親の気持ち

2010-04-27 | 音楽子育て回想
久しぶりの「音楽子育て回想」です。

今までの仕事を退職して、私と同じ道を歩みだした長女。

そんな立場になって気になりだしたのが

小さい頃音楽的にどう育てられたからしい。


話しかわって 子育て真っ最中に私は2度長女を川へ連れて行き

「こんな子は 捨ててやる!」と嫌がる娘を車から引き剥がそうとしたことがある。

市川下流の広い河原をみながら土手の端っこで親子バトルである。

その記憶が長女には鮮明に残っているらしい。

ただ なぜ川に捨てられるに至ったかはよく覚えていないらしい。


体力があって身体が大きかったのと リズム感を育てたいとの思いで、

私のドラムのお師匠さんに、娘のレッスンを頼んだ。

「小さい子は無理、おかあさんが教えたらいい」と一度は断わられ

「親では無理です。わたしがフォローをしますから」と

 頼み込んでレッスンを受けられることになった。

当時4歳5ヶ月の娘。 先生が断りたい気持ちもよくわかる。



最初の半年ほどは 先生も私も娘も手探り状態。

そして、男の子より絶対やんちゃと思われる娘。


「お母さんが先生に頼み込んでまでレッスンをしてもらっていたのに

 その先生の頭にスティックを後ろから持っていって突き出して

 『鬼!』ってやっていたら そりゃお母さんは川に捨てたくなるわね

 そんな親の事情なんて知らなかった」

 やっと捨てに行った親の気持ちがわかってくれたのね。


 そのことがあってから娘はまじめにやりだし

 なんとかレッスンが進められるようになりました。

 もし全く興味がなかったり あとの親のフォローがないと

 その時点で嫌いになっていたかも知れません。 これもある種の賭けみたいなものです。


 音楽の早期教育には親の覚悟と力添えがいりますよ。


 

どうしたら好きに?

2010-02-09 | 音楽子育て回想

 

子育て真っ最中の、かつての教え子で同業者。

どうしたら音楽好きな子に育つのですか?

 

そう聞いてくれるのですから

我が家の娘たち子育ては、

「音楽好きにした」点では成功だったんですね(笑)

 

 

 まずはお母さんが楽しむこと、

 そしてアンサンブル楽しむこと、

 我が家では思い当たるのはそんなものかな~。

 


音楽好きに育てるコツ

2010-02-06 | 音楽子育て回想

 

 自分に子どもができたらやっぱり絶対音楽をさせるらしい。

 娘がコツを聞く。

 私にコツを聞くということは「自分が音楽好きに育った」と思っている証し。

 なんとなく嬉しい。

 

 「たのしく ゆるりと でもしつこく」ね

 この「しつこく」っていうのが大切。

 親も子どもも我慢のときがありますから。


ピンクの軍隊

2009-07-07 | 音楽子育て回想

 

 「ピンクの軍服にすればいいのよ。

 だったら戦意をそがれて戦争にならない」

 たしかこのようなことを 三輪明宏さんがどこかの番組で言っていた。

 

 それをふと思い出したのが

 発表会で弾いた長女の「軍隊ポロネーズ」。

 どうだった?と感想を求められ、

 私は、今までも娘の演奏を特にほめた事もなく

 発表会のあの場では参加者の生徒の演奏を聞くのが精一杯。

 娘のは後から 聞きなおして感じるのがいつものこと。

 

 「ピンクの兵隊さんだね。  迷彩柄ではないな~」そんな感想に、

 娘は、「ええ加減な母め」と思っただろうが、

 発表会で弾いているものの師弟関係でなく親子関係。

 ほめても、注意しても娘はなんだか ふてくされる難しい関係なんですよ。

 そこらへんはわかってると思うのだけどね。

 

 次女の情熱的スペイン風アンダルシアも

 家で仕事のストレスを発散しながら練習しているときは

 情熱も時に喧嘩を売っている風に聞こえる。

 

 しかしだ、二人とも仕事を持つお年頃になっても

 家の発表会に参加することをとても楽しみにしてくれてることだけで

 母はうれしいんだよ。

 手が小さくてなかなかおさえきれないやさしいピンクの軍隊でも、

 ストレス発散型アンダルシアでも

 大いなる趣味として楽しんでくれればね。

 

 さて二人とももう、次回の選曲に入っております。


カルタ取り

2006-11-27 | 音楽子育て回想

 

久々の「音楽子育て回想」です。
娘たちと音楽談義になりまして、
長女が、「私はリズム読みに あまり困った記憶がない」と。

そりゃそうだわ。

【長女のストレス】
3歳になったころ、レッスン室に入れてもらえなくて泣き、
おじいさん、おばあさん無理やり2階に連れて行かれ
遊んでいました。
お母さんが家にいるのにレッスン中は会えない事は
相当のストレスだったようです。

【レッスン開始のいきさつ】
苦肉の策で、毎日午後レッスンが始まる30分前は、
3歳の長女がレッスン室に入っても良い時間と決めて、
レッスンをスタートしました。
鍵盤の軽い電子オルガンのまえに座ること3分。
理屈ぬきでここが「ド」。
それが押さえられたらよし。
残りの時間はリズムカードでカルタ取り。
最初は タン タン ウンのやさしいのからはじめました。

【名づけて「長女のカスタネット教室」】
様々なリズム、拍子(八分の六拍子も)
リズム譜を見た目と聞いた感じで覚え、
これも理屈ぬきでドンドン 行け行けで、
さっと聞けば、カードはわかる。
示されたら、すぐ叩ける。
1年間はほとんど毎日そんなことをやっていました。
なんせカルタ取りですから、
誉めるとどんどんやって、
レッスン室に入れる事もうれしくて、
たまに遊びに来るレッスンを受けている子を相手に、
カルタの試合?をして腕を競いました。
(たいてい 大きい子でしたから、手加減してくれて ○○チャンは偉いね~と
誉められて 余計 うれしかったようです)
取り合いで 画用紙で作ったカードが何度破れたことか・・。

あとでピアノを習いはじめたとき、
全音符や、二分音符の間の取り方、
休符の感じ方、八分の六拍子ののり、
シンコペーション等、
リズムカードをしたことで、
音符の上下(ドレミ~)とリズム譜が結びつき、
自然にのりが作ることができたと思います。

音符もカードを作りカルタ取りの要領で、
すべて 理屈抜きのゲーム感覚でした。

長女「小さい子はみんなしているの?」

もちろん取り入れていますが、
長女みたいにそれだけに、かかりっきりにできません。
他の要素も取り入れないとね。

ただ、 何事もある程度ものになるには、
家庭での工夫と努力が必要なことは言うまでもないことです

たまたま 長女は家庭がその環境にあったことはラッキーでしたが。

そこで次女。
「私の時は してくれたの?」
いいえ してません
年子とはいえ、 長女の方が体格もよく腕力もありましたから
お姉ちゃんと一緒にはできません。(泣かされるのがオチです
おねちゃんは お母さんのレッスン方法の実験対象みたいでしたから。
その分、自分で静かに考えて弾ける様になったでしょう?
  (とってつけたみたいな 言い訳でごめんね)


お調子ものの長女と、沈思黙考型の次女でした。

いまでは成人して随分、形勢逆転してきた部分もありますが、
たまに 我が家流音楽談義ができるのは幸せなことです。

ピアノをならっていると、(管楽器等 単音楽器もね)
 旋律(メロディ)、慣れてきたら和音(ハーモニー)は気になりますが、
忘れがちなのはリズムです。


ピアノの蓋

2006-10-13 | 音楽子育て回想

 

秋 、運動会がすんで、
次は 音楽会シーズン。

長女が1年生の時、歌の伴奏担当に。

トトロのさんぽ。

途中で転調してフラット6つ。
ドに♭がついて シになるのが気に入らないし、
伴奏は 左手はベース進行。右手は和音で、
ブンチャ ♪ ブンチャ ♪の形。
メロディーがわかんないから、
もう イライラっ~。

ピアノの蓋に小さな凹みが。

噛んだのね、蓋。


生活にリズムを

2006-08-08 | 音楽子育て回想

生活にリズムをつけるのはお母さんの役目です。

レッスン日には、

一人で通える子はお母さんか家の人が声をかけ、
つれてきてくださる家庭は、とにかくつれて来てください。
夏休みは特に生活のリズムが崩れます。

あるお母さん、
「急に娘が行きたくないと言うのです」
 お母さんとおばあさんで育てていらっしゃるご家庭の事情はわかります。
 しかし、 仕事の都合で、
 子供さんは来る気があっても キャンセルが多く、
 時間変更をしてもその時間にもつれてきてくださらない。
 それに 後からでも連れて行けなかったと、メールのひとつもない。
 平日が無理なら土日もレッスンしていますよとお知らせしても、
 土日はお母さんが休みたいそうで。

「行きたくない」というのは
レッスンがいやではなくて、お母さんを困らせようとしているのですよ
困らせて、注目を向けようとしているのです
とにかくつれて来てください。
それだけでもずいぶん気分が晴れるし、音楽の楽しみ感じてくれると思うのです。

お母さんはわかってくれたようです。

決まった曜日に がんばってねと送り出してくれるお母さん。
お母さんはやはり家庭の雰囲気を作るのになくてはならない人ですから。
子供の応援係りなのですから。

親の背を見て育つといいますが、
ほんとに親の都合を理解してくれるのは、
大きくなってから。

私自身 人様にお説教できるような子育てはしていませんが、
成人した娘たちが、

あのときのお母さんは怖かったとか、
あの時叱られたのは、怖いだけだったけれど、今なら理由がわかるとか、
あの時はやはり 私たちのこと気にかけてくれたのね・・とか、
あの時は教育的意味はなくて、ただお母さんが癇癪起こしてただけだったとか
(なかなか 厳しい観察です)。

かなり自分本位で強引で自信ありげな子育てでしたが、
その「根拠のないような変な自信を持っているお母さん」が頼もしく
安心できる存在なのよねと 言ってくれます。

よかったのか 悪かったのか、
でも 今このように 子育ての時を昔話みたいに、
語れるだけでもよかったと思っています。

 


昔話 6 音楽悪夢克服

2006-05-28 | 音楽子育て回想

 

試験前なのに練習が出来ていない 暗譜ができていない~の夢を見ること
10年。

改めてピアノを習うことを反対されてよかっと思います。(前回記述)

自分のために、自分が考えて解釈したピアノを弾こう。
誰にも点をつけられることなく、批評をされることのない、自分の演奏。

昭和59年から、定期的に実施した発表会で、
必ず、自分の演奏を取り入れることにしました。
発表会のとりに講師演奏.

生徒も教えて、自分の演奏のための練習時間確保やテンションの維持は、
相当の労力が必要です。

しかし、自分を追い込み、
大学時代にしたくてもできなかった曲、例えば、
有名すぎる曲やお手軽そうに感じられる曲、
弾いてみたいけど、弾けばあらが目立ちすぎる曲を選びました。
苦手な暗譜も必死に。

月の光   ドビュッシー  
アラベスク  ドビュッシー 
幻想即興曲 ショパン
ノクターン  ショパン  等々。

子育て最中に、子供を寝かしつけてから、
一緒に寝たいのに、また起き出して練習。
しんどいけど、この時期に経験していれば、あとあと何でもできると
言い聞かせながら、眠い目をこすり練習しました。
いろんなCDを聞き、自分の演奏を録音したのを聞き、
自分のための練習。
発表会前は数キロ痩せていました(笑) 今はそんなことありませんが。

夜でも弾ける環境にあったのは幸いでした。
防音室でもなんでもないのですが、家族は寝てくれていました。


決してうまくは弾けませんでしたが、
すごいね いつ練習するの?
先生、楽しそうにやってるね、と
父兄からの声を耳にしてうれしく思いました。

発表会の最後に演奏するだけでは、
どうしても片手落ち。不本意。表現しきれない。楽しめない。
発表会は指導に専念したい。

ある、アマチュアのシャンソン歌手が、数年練習しただけで、
リサイタルを開いていました。
私はそれを聞いて、
うたとピアノの違いはあっても、私にもできないことではないと思い立ち、

いざ、リサイタル。
家から歩いて3分のところに300人の小ホールが。
ピアノだけではさすがに2時間持ちませんので、
童謡を歌い、ピアノ演奏、
ドラム演奏、
指導に行っていたPTAコーラスに、自編曲を歌ってもらい、
曲の合間に、音楽に対する思いを語り、
何でもありのリサイタル。

お客様は生徒さん、身内、友達、
一応、有料ですが、ほとんどがご招待。

知り合いで固めた客席ですから、
厳しい批評もありませんし(笑)

だれもしてくれと頼まないのに、なんでわざわざそんなしんどいことをするの?
と、姉に言われましたが、姉がドレスを作ってくれました。
いい年して、ヒラヒラのが着れていいわねぇ。
リサイタル前の食事は、手抜きの買ってきた惣菜。
はやくまともなのを食べさせておくれと言いつつも、
ばあさん友達にチケットをタダで何枚も配ってくれた母。
ドレスの生地は、主人の仕事の取引先からもらった、
インテリア生地でした。
かまってくれないけど、なんか普通のお母さんとは違うことしてるなと見ていた
娘たち。
保育所のお迎えはいつも行ってくれた父。


32歳になったばかりの3月のリサイタル。 それから夢は見なくなりました。

そのあと 次女の幼稚園でPTA会長にあたり、
レッスンとPTAの目のまわるような忙しさがはじまるのですが・・・。

昔話はおしまい おしまい。

しばらくは 6月25日の発表会に向けての、
プログラム作りに専念します。


昔話 5 私の足跡

2006-05-27 | 音楽子育て回想

 

大学を卒業しました。
当時卒業したら、
楽器メーカーのグレードを各自で取得して、楽器店の講師。
教職。
ホームレスナー。
永久就職(何人かいましたよ)
家事手伝い。

私は体調を崩して帰ってきたし、
ピアノは弾きたくないし、
わたしは当然、家事手伝い。

あてもなくフラフラ出来ませんので、
午前中は歯科医院のアシスタントに。(小遣いくらいかせがなきゃ)
午後は、母の洋裁教室で服を作っていました。
自分の服は自分で作る、それに買うお金も親からはもうもらえない。

母が看板屋に頼んで、小さな看板を門に掲げてくれました。
それですぐに生徒さんが集まるわけでもなく、
母が、婦人会で知り合った人の子供さんを、
無理やり、他で習っているにもかかわらず、
「娘が帰ってきたから 来て~」と一人引き抜いてきたのです。
ある意味、すごい母です。

半年がすぎ、気持ちも体調も戻り、
受験や、試験のためのピアノでなく、
自分のためのピアノを習いたいと思いました。
そこで予想外のきつい母の一言。

「4年も大学にやったのに、まだピアノをならわなあかんの?あほか。
なに習ってたんや」

今思えば、普通のサラリーマン家庭で音大で、外に出し、
学費、仕送りは大変だったと思います。
その思いが、その一言になったのでしょう。
まだ、お金使うのかってね。

母のもとにいれば私はずっと子供扱い。
しかし、母の望む結婚をし、
子供も生まれ、
同居ながらも、自分の主婦、母、レスナーとしての立場が確立できた頃、
改めてピアノを習うことはやめて、
声楽、ドラムス、ハモンドオルガン、ピアノはピアノでもジャズピアノを、
習い始めました。(反動ですね
全部これからの私の仕事に役立つのだから好きにさせていただきます。
得意の開き直りです。

二人目が生まれてから、楽器店でのレッスンや、出張レッスンをやめて、
自宅のみでレッスンをしながら、少しずつ生徒さんも増えました。
これは、母が子供を見ていてくれたおかげです。
「女は家庭で両立できる仕事をもちなさい」
言い続けてきた母ですから。
私はおかげさまで仕事を休んだのは、産後の1ヶ月間だけでした。

自宅教室は順調でしたが、
困ったことが一つ。
しょちゅう夢を見るのです
あ~練習が出来ていない。暗譜が出来ていない、明日試験なのに~

大学をでて結婚し子供までいるのに、
まだ大学時代の夢を見るのです。
さすがに何回も夢を見ると、
夢の中のもう一人の私が、こんなのとっくに済んだことなのに  と
つぶやくほどでしたが。

この夢を吹っ切ることが出来ました。
卒業後10年かかりましたが、それから以降全く見なくなりました。
その克服の仕方を(大げさですが) 次回に書きますね。








 


昔話 4

2006-05-26 | 音楽子育て回想

 

大学に入りました。
第5希望の大学でした。
と言うことは 4つ不合格。
仕方がないか、高校のときピアノをまじめにしていなかったのだから。
5つも受けさせてくれた親に感謝です。
浪人もしたくなかったし。

ただ上二つの大学は、所詮無理とわかっていましたから、
「この偏差値では無理だよ」と高校にデータを残してあげました

高校時代のブランクを埋めるかのように、
厳しいレッスンが始まりました。

ひたすら弾いて、体で覚える。
教授の思うようにひけていなかったら、
叩かれて、涙と鼻水を出しながらのレッスンでした。
それでもちょっとは弾けると教授が判断したのか、
月1回 東京から来る教授の特別レッスン生にに推薦いただき、
また、コレがありがた迷惑で・・・。
レッスンを辞退するすべも知らず・・・。
教授と、客員教授の言うことが違うので、
私はどう弾けばいいの???
週1回のレッスン。
前日夕方になると、ご飯も食べたくない・・・・。

ただ、初見がきいたので、
伴奏を随分頼まれて、これは良い勉強になりました。
クラリネット、トランペット、声楽、オーボエ、
試験が近づくと自分の曲より、伴奏で忙しかったですが、
管楽器はユニークな先生も多かったので、楽しかったです。
ソリストを活かすためにも、管楽器の先生の伴奏に対する、
注文、指導は厳しかったですが、
それぞの楽器の間の取り方、息遣い、音色の勉強になりました。

4年生になり、
親元を離れての生活にも慣れたようで、疲れたのか、
体調を少し崩し、首が回らない、腕が上がらない・・弾けない。
そこに、教授とのお付き合いのトラブル。
いろいろありますものね、派閥、チケットの購入、様々な行事や演奏会にからむ
お金のこと 等々。

弾きたくないし、弾けないし。
卒業試験も難しい曲を選んだのが災いしてか、
試験に間に合わない。

いま考えれば冷や汗もの。いや当時も冷や汗いっぱいでしたが、

とにかく卒業して家に帰って、しばらくはピアノを弾く気にはなれませんでした。
人から、なにか弾いてくださいと言われるのが苦痛でした。


そんなこんなで昔話は、あと1話の予定です。



昔話 3

2006-05-25 | 音楽子育て回想

 

私の高校時代は、ピアノに関しては、
全く成長しませんでした。

学年の半数が国立に進学する高校。
勉強とピアノの両方はしんどかったです。

気持ちが参ってしまい、
どちらも手につかず、
レッスンも親に内緒でさぼることも多くなり、
学校の勉強はしたくなくて、本ばかり読んでいました。

3年生の夏進路を決める頃、ピアノとは別に、
声楽とソルフェージュも習っていました。
その先生に、「他にしたいことがないなら、音楽で頑張りなさい」と諭され、
受験曲だけを練習して、受験に臨んだのでした。

友達はいても親身に話すような友達はいなかった。
劣等感と、開きなおりですごした3年間。
親とも会話もなく、
でも 親は一生懸命、親の背を見せて頑張っていたはず。

娘たちに、
高校入学時に、一番に言ったこと。

友達を作りなさい、
大学になって離れても、
地元に戻ったときに遊べる友達、
結婚しても、また出会える友達を。


私自身、順調にいかなかった分、
ピアノを弾きたくない人の気持ちはわかるつもりです。

今は 頑張りなさい。
今は 頑張らなくてもいいのよ。

 人にはバランスよくその言葉が言えますが、
 ついつい頑張ってしまう私がいます。

 


昔話 2

2006-05-23 | 音楽子育て回想

前回は中学校までの話でした。
いざ 高校受験。地元に私立の音楽科がありましたので、
深く考えずに、そこに行こうかと思いましたら、
ピアノの先生から、普通科の高校から音大に行きなさい、その方が、視野が広くなりますよ。
中学の担任の先生からも、私立の音楽科より公立の普通科を強く勧められ、
当時、少し頑張れば進学校に入れる成績でした。(学校としても行って欲しい)
学校から帰り、塾の宿題、学校の宿題、塾に行って、
夜の12時までピアノして、それからまた勉強。
担任から睡眠は5時間以下でよい なんていわれてまじめにやっていました。
今、思えば応用の利かない詰め込みの勉強。
通っていた塾も、今では考えられない巣スパルタ式で有名で、
出来なければ、叩かれていましたから。
ガンガンに詰め込まれて、やめたくても、やめたら、自分で勉強する自信がなくて
やめたいなんてとても親にも、周りにも言えませんでした。

ピアノもとりあえず、先に進むための機械的な練習。
バッハの面白さもわからずに、シンフォニアから、わけもわからずフランス組曲へ。
ツェルニ-40番もざっと済ませてやっと50番に。
それでも、ピアノは楽しかったです。
先生のお子さんが、同じ高校を目指していて、
勉強と、ピアノの両立に理解をしめして下さったから。

(その塾ですが、私の母は、私が行ったから当然、孫も行くものと・・、
娘たちを熟受験させましたが、長女は雰囲気に合わず、3日で辞めたいと言い出し、
塾の時間になっても風呂場に閉じこもって出てきません。
私は、 やめたくてもやめられなっかった私を思い出し、あっさり辞めさせました。
次女は中学三年生になると、私から見て、息切れ状態と感じたので、
学校の勉強だけで、行けるところに行けばいいと、自分のペースを取り戻させました。
私は無理をして高校に行き息切れしましたので、
娘たちには余裕でいける所に行ってほしかったのです。)

いわれるがまま 一生懸命がんばった中学時代でした。
私の母親は、やはり戦前に8人兄弟の5番目で苦労して、努力した人でした。
親がいうがまま、反論もせず、
反論したくても、親の言葉が正論と思えたので、意見を言うこともしませんでした。

娘には、やはり親の権力?を押し付けた部分もありましたが、
かならず、お母さんはこう思うのだけど、あなたはどう思う?  と、
自分の意見が言えるように仕向けました。


 長話になります。 次は高校生活です。


昔話

2006-05-22 | 音楽子育て回想

 

女は、家庭で出来る仕事をもつべき。
そうすれば、家庭と仕事が両立できる。

それだけを母から教え込まれ、
ピアノの先生をすればと、
音楽のことは何もわからないのだけど、
お金は出してくれた母。

そもそも、ピアノを習い始めたきっかけは、
体が弱く、小学2年くらいまで外遊びが全く出来なかった。
生まれつきだから、外遊びが出来ないのも苦にならず、
親が買い与えた電気オルガンと人形が友達でした。
幼稚園の頃は、病院通い、入院検査で心室中隔欠損症と、
診断されたのは小学校1年生。

そんな私をみて、不憫に思ったのか、
たまたま幼稚園で一緒のご近所がピアノを買ったからなのか、
ご近所と同じピアノを、頼みをしないのに買ってくれました(笑)

相変わらず、遠足も、運動会も、プールなんてもってのほか。
ピアノしかすることがなかったのです。
3歳上の姉も習っていましたが、どうにも音あてが苦手らしく、
姉は5年生で先生の都合もあってやめました。
そのとき一緒に私も止めさせられたのですが、
なんとも手持ち無沙汰で、
自ら、次の先生を探して欲しいと親に頼みました。

それで、この子はピアノが好きなんだと、母は確信したのか、
冒頭の、
女は、家庭で出来る仕事をもつべき。
そうすれば、家庭と仕事が両立できる。
  を、念仏のように唱え続けました。

「念ずれば叶う」って言葉を聞きますが、
まさに母のためにあったような。

心臓の穴は、幸いにも小さかったのか、
成長とともにふさがり、4年生頃には普通のことが出来るように
なってきました。

中学校1年のとき 母は音大を意識して、
師事している先生に相談したところ、
それなら、他の先生に変わってくださいと言われ、
知り合いのそのまた知り合いの音大生から話を聞き、
受験には、コールユブンゲンや、聴音や、ピアノ以外に、
いろんな勉強がいると教えられて、
母子ともにびっくり。

ある先生の門を叩き、中学1年でツェルニ-30番じゃ遅いと、
追い返され、
別の先生に、大丈夫と救ってもらい、
そこから私も厳しさを感じたのか、
部活も週1回で済む、生け花部に所属、
生け花の日がレッスン日だったので、
さっさと、花を投げ込んで、華道の先生にあきれられながら、
早々に退出。

毎日3時間の練習で、30番をさっさと仕上げ、インベンションに、
悪戦苦闘し、ソナタ、ソナタと追われる日々。

幼稚園の時に買ってもらった、アップライトピアノは、その頃には、
整音、整調しても変な音になってしまいました。
母が調律師となにか話をしているなとおもったら、
ある日 突然グランドピアノが出現。

うれしいやらびっくりするやらの私に母は人一言。
「これから先、滑ってもころんでも 音大にいってね」

音楽は知らなくても、娘の職業には熱心でした。
いま思うと、母は洋服の仕立てをしながら自宅で洋裁教室をし、
はさみや、ミシン、アイロン等 仕事の道具は選び、大切に、
扱っていましたから、ピアノも私の道具として捉えて、
うまくレールを敷いてくれたのでしょうね。
今となれば口うるさい母に、感謝です。

カテゴリーは「子育て回想」です。
一代さかのぼっての回想録になりました。

順調に行くように思えましたが、
人生いろいろ。
ピアノなんて、弾きたくない、見たくもないと思った時期も。
高校時代に、そして大学を卒業して、二度ありました。
これはまた次の機会に。

庭にてんとう虫が遊びにきました。