(琉球新報、2014年4月8日、文化欄)
伊佐さんが新報に連載している『沖縄と日本の間で』は、詳細な伊波普猷論の側面をもっている。いわば虚像と実像のあわいを拾っているのだろう。著名な沖縄学の父の論稿と実像(個人史)をたどっているが、面白い。いつ卒論にたどりつくのか、その後に一冊にまとめられることを楽しみにしているのだが、その緻密な掘り下げの中でも、まだ物足りないと思えるところは、フィクションン仕立てで物語が書かれていくのだろうか?最初の妻と普猷の関係性とその破たん、冬子さんとの駆け落ちにしても、まだまだグレーの部分が感じられた。フィクションが入り込める境域なのかもしれない。
田島利三郎が書いた「阿摩和利加那といへる名義」→「阿摩和利考」へのいわば剽窃のような文章の指摘は、はっきり剽窃と書いてはないが、暗にそれを示したということだろう。それは山里永吉の「首里城明渡し」が、菊地寛の戯曲「時勢は移る」を剽窃したところが一部あることと類似するが(それはすでに「演劇に見る琉球処分」で指摘した)、近代においてすばやく中央の知の領域に触れたものが、それらの影響を受け、剽窃し、自らの作品や文献の中に盗用する(引用する)ことは、けっこうどこでもありえた事なのだろう。例えば、欧米に留学して、あちらの知的フレームを学んだ日本(沖縄)知識人が、あちらの論稿をそのまま引用したり、盗用したり、利用することがままあるのと似た現象なのかもしれない。(昨今のインターネット時代は英語・日本語論文が即座に検証できるので、それは難しくなっていると言えようか。英語論文が主流になっているグローバル知性である。)
中央の視線や価値観があり、上から周辺を見下ろす視線は常に健在だと言えよう。立ち位置といわれる。どの立ち位置に立って研究するか、どの立ち位置から社会や世界の現象、足元を見るか、問われる。誰のための研究で誰のための批評で、誰のための創作かも問われるのだろうか?つまり支配者のための論理なのか、一般大衆のための論理であり創作なのか、ただ個人的美意識のための研究であり創作なのか?個人的利害≪会社や研究所の利害≫のための研究であり創作なのか?それらの境界は意外と曖昧なのかもしれない。少なくとも伊波普猷が貧しい、見下げられていた近代の沖縄大衆のために筆をとったことだけは確かだと言えよう。そこもグレーだろうか?自分の研究対象として伊波普猷の文庫版『沖縄女性史』をリュックに持ち歩いているが、伊波のテーゼはまだ生きている。それを超える視点や論理化ができないか、考えているのもその通りだが、どれだけ新たな視点を付け加えることができるか、問われ続けている。