志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

沖縄《人》の活力の源にある祭祀芸能ー「祈りと芸能」は村々のアイデンティティーの泉なんですね。

2012-08-24 08:32:10 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

夏の彩りをもたらす様々なイベントや祭り、華やかな都市祝祭は国際通りのエイサーや旗頭パレードなどなど、各市町村でも夏祭りは地域の彩りをもってそこにある。そしてさらに村々では村遊びが旧の十五夜辺りに催される。出自の島々に帰巣本能のように戻っていく人々の姿がある。生まれ育った村々や島々、祖父母が生きてきた土地、その空気の中に身を浸そうとする無意識に人が自らの根に戻ろうとする行為。それは何だろうか?命の連鎖があり、その命を辿ろうとする人の必然的な姿なのだろうか。夏になると島々、村々、街は人口が増える。祭祀や村踊や様々なイベントに身を浸すためである。参加し、リズムに踊に多様なパフォーマンスに酔う。

その根っこの部分にウシデークやシヌグがある。祭祀芸能を追いかけたらその魅力にはまってしまうね。TWITTERのウェヴ界とも異なる生な体験のエキスはウェブ空間以上のものがあるに違いない。しかし最近はライブの映像で官邸前にいっしょに参加し、いっしょに大勢の人間とことばを交わす空間があり、例えばロンドンのエクアドル大使館前の人々とも連帯できたりする、擬似的祭祀空間がウェブ上で可能である。

今や世界の億の人間が同じ祭祀芸能や同じドラマ、地球劇場を生な体験のように視聴しことばを交わす時代なのである。それは既成の大手メディアを媒介するものではない。USTREAMなどのインディペンデント系の報道手段が可能にしている。

クリスチャンの友人が言った。聖書に世界の衆目を浴びてXXXがなされるというのは、このインターネット時代のことだったのね、と。つまり例えて言うと、イエス・キリストの処刑の場を世界中の人間がネットを通して見るという形態だとー。聖書を絶対視しているように見える彼女だが、聖書の予言による未来の世界の姿をそう表現した。

今のメディアはもっと踏み込んである劇場を世界の目が見ながらお互いに言葉を交わせるという事である。既成メディアの一つの目ではない。無数の目線、声が飛び交い、無数の意識がことばになり、ある集合的認識をもたらす可能性がすでにあるのである。それは決してテレビでは成し得ない世界である。ウィキリークス、アノニマス、ハッカーアクティビストが注目を浴びるのはその流れなのだろうね。

小さな村の祭祀が村を超えていくね。かつて地球村のことばが流行ったことがあったが、その方向へ向かってはいるのだろう。それは好ましい。権力を牛耳った一部の国家メディアや大企業スポンサーメディではないメディアの登場である。真のグラス・ルーツの可能性を信じたい現在である。

 

(以前撮りためた写真がたくさんあるのだけどー)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。