「いぬらめら」(演劇きかく【満腹中枢】)はとても面白い!
北谷のニライセンター「カナイ」ホールで公演中の「いぬらめら」を見た。とても面白かった。おそらく今後100回の公演があっても飽きさせない舞台になるだろう。
琉球・薩摩の歴史の中に登場した牧志・恩河事件 (まきし・おんがじけん)が中軸にあり、薩摩の琉球館で薩摩役人の御伽のような役割をさせられた琉球士族の娘とその乳母が牧志朝忠の人生とからんでいく物語である。
【乳母・於美登の犬養憲子さん、侍の娘マナビ(そそっとした娘の雰囲気が良かった)】
薩摩の琉球館にいて牧志に恋慕した琉球士族の娘との恋愛が舞踊劇になっている。それに現代に生きる姉妹が重なる。
姉と妹がいる。ごく普通の身近にいるように思える二人の対話が等身大で受ける。その妹の夢の中に出てくるのが、冒頭の琉球王府時代の娘と乳母であり、伊平屋沖で海中に身を投げて自殺したとされる牧志氏である。
夢の中の出来事が当時の時代を表に引き出す。あの時代の琉球の位相は弱かった。
つらねあり、組踊の唱えあり、舞踊がそこに網羅される。コミカルな演出、舞踊の振り付けである。犬養(姉)仲程(妹)の現代の二人の対話がまた一緒にそこにいるように受ける。紗幕の使い方もいい。地謡の花城英樹もいい!演出の嘉数道彦もいい!牧志役・平良進さんもいい!平良さんは歴史の経緯を語るナレーション役でもある。
古典音楽がいい!現代と琉球王府時代の歴史物語がからむ。んんいいね。こんな舞台は初めてだ!舞踊も振付は知花小百合さん。どことなく「親あんま」の舞踊劇を彷彿させる所作から現代舞踊のような大きな振りもあり、また乳母の犬養憲子が滑稽な踊りも披露する。
(普段は仲のよい姉妹、盆の前のある日、ことみと真那美)
古典は述懐やションガネー節、散山、上り口説、と聞かせる。おまけに花城さんは笛も吹いた。
超面白い!ぜひご覧ください!22日昼2時にもあります!
いめらめらと思て 里待ちゅる我身や 咲ちゅる節ねらん 花がやゆら
(早く来てくださいと、早くいらしてください、と思いながら、愛しいあなたのお越しを今か、今かと待っているだけの私は、もしかして、もう花を咲かすことは出来ないのでしょうか?)
薩摩の附庸国だった琉球王府の近代の扉を前にした時代背景が伺われる。薩摩の琉球館で薩摩侍の御伽、妾妻のような役割をいい使った琉球士族の娘の存在は、悲哀感を秘めている。身を薩摩侍に捧げながら牧志朝忠を愛した娘の引き裂かれた人生の色合いがそこにある。乳母(ちーあん・ウミト)と娘(マナビ)がいた。17歳から10年以上も薩摩侍の相手をした女性たちが王府時代に琉球館にいたとしてもおかしくはない。「自分らに会いにきていたみたい」というのは、実は薩摩の侍の御伽ではなく琉球から派遣されてくる士族層の相手もさせられた女たち(現地妻)でもあったのかもしれない。犬養憲子の脚色は原作宮城信行の作品をさらに二重に物語の層を創っている。普段着のような会話をする姉妹が、琉球王府時代にさかのぼって当時の時代を再現する。彼女たちの語りの中で、つまりまなみの夢の中の出来事として当時のまなびの琉球館での思いや牧志の運命と愛がからんでくる。
つまり現代の普段着の感覚から時代をさかのぼる構成は入りやすい。踊りもいい。主題曲が「いめらめらと思て 里待ちゅる我身や 咲ちゅる節ねらん 花がやゆら」とションガネー節で情感たっぷりに花城さんが歌う。しかし物語が悲愛感につつまれているわけではない。乳母が狂言回しのような、間の者のような役で笑いを取る。深刻な物語の流れのコミカルリリーフになる。
犬養、仲程の組踊の唱え(和吟)はいい。牧志朝忠役とナレーター役の平良進氏も安定した役回りである、マナビと朝忠が互いに思い思われる仲であっても二人は引き裂かれた愛を生きざるを得なかった。その辺はまた惹きつけるね。人はまた皆愛に生き愛に泣き、愛(恋)ゆえに苦しむことは多々あるゆえにーー。
姉妹の普段着の対話が惹きつける。二人の対話の中で夢を演じているという設定がいい。薩摩の琉球人は世界のウチナーンチュみたいよ、などの台詞も面白い。ことみが電話で話している対話もとても身近に感じられて面白い。一人芝居のような二人芝居の巧みさ!ねーねーの呼び方もいい。おとみねーねー!いいね。
今回改めて犬養さんと仲程さんの演技や組踊の唱え、つらね、踊りに目を見張った。継続は力なり?!確実に味わい深い女優として顕然したお二人にびっくりで、とても楽しめた。
芝居の構成の中に平良進さんが経歴を自ら披露する語りもあり、現実と過去と物語の流れがまたメタシアターのように挿入されている。ナレーター役が舞台中の役者の説明もする構成で、意表を突くが馴染みやすい。芝居の虚構性ゆえの重ねであるが、実際の役者と現代の姉妹、そして王府時代の乳母と娘、語りはまた二役をやってのける。
短歌の唱えがまたつらねで繰り返される場面もある。心情は短歌やつらねで朗誦され、それをまた地揺が美声で歌う。聞きごたえがある!歴史的事件がラブストーリーに包まれる。それを現代から手繰り寄せる。久々にぐいぐい惹きつけられ笑いも起こった。
以下は他ネットからの転載!
牧志・恩河事件 (まきし・おんがじけん) は、
沖縄コンパクト辞典
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-42976-storytopic-121.html
によると、
三司官人事をめぐる問題で、三司官小禄親方、物奉行恩河親方、異国通事の牧志朝忠らが不正を行ったとして免職投獄され、流罪に処せられた(1859年)。王府内の路線闘争が絡んでいたと見られる、謎の多い疑獄事件。
牧志朝忠(まきしちょうちゅう)や恩河朝恒 (おんが・ちょうこう)は、薩摩の島津斉彬(なりあきら)に忠実な薩摩派であった。
ペリー来航のあと、琉球王国は自由貿易を認める琉米条約を結んだため、薩摩にとっては出島のような存在となった。従って、薩摩は軍事物資を外国からどんどん購入するようになったのである。
この事件では、琉球王国内部で薩摩派が放逐された。それは、斉彬の死の知らせとともに起ったが、江戸でも同じころ、安政の大獄が始まっていた。そして、フランスからの軍艦購入契約を白紙に戻すこととなる。
悲劇を生きた沖縄の偉人 板良敷(牧志)朝忠「いたらしき (まきし) ちようちゅう」
http://www.geocities.jp/shioji2002/itarashiki-8.htm
第7話-8話から、その背景を含めて一部引用したい。なお、注は私が書いたものである。
○ いよいよ、朝忠の悲劇を、これまた喜舎場朝賢(きしゃばちょうけん)の「琉球三冤録」を中心にまとめてみる。
その1.異例の特進、「表十五人役」
「安政四年丁巳十一月薩庁命ありて異国通事大湾親雲上(注、ぺーちん、中堅役人のこと)朝忠を十五人席勤務に任じ仮に日帳主取(注、ひちょうぬしどり、外務政務次官のこと)の事務を執らしむ」、この書き出しから始まる「琉球三冤録」の記述は、国王の近習の座にあり、公式書面を閲覧できる立場の者(注、喜舎場朝賢、きしゃばちょうけんのこと)の書であるだけに、当事者の息遣いまでが伝わるような臨場感がある。
○ 当時、英仏露米等列強国が相次ぎ来琉し、条約締結を迫るが、摂政三司官(注、さんしかん、3人の大臣のこと)は対応仕切れないとして薩摩へ頼り、薩摩は薩摩で江戸幕府へ伺いをたて、その結果異国人の要求を全て拒否する態度を取った。更に、琉球の対応は悉(コトゴト)く在藩奉行所役人に監視され、甚だしきは、園田、市来(イチキ)のように琉装で会談に同席する手段までとられていた。いかに薩摩が、外国との通商を表向き恐れていたか、それは幕府に対する恐れでもあった。
○ 安政四年(1857年)10月10日、島津斉彬(ナリアキラ)の特命を受けた市来四郎が着琉。市来は、ほとんど間髪を入れずに、朝忠をして表15人への取立を実現させている。摂政三司官は歯がみをする思いでこれを受け入れる。
○市来四朗の特命とは、軍艦購入、それにともなう銃器類の大量調達、琉球と薩摩の青年の海外留学、その他の工作である。幕府の力が低下しているとはいえ、まだ鎖国の時代である。軍艦を直接島津藩が購入できる訳が無く、当然琉球国を名目上の名義人にした闇取引がその裏に秘められている。これは、かって老中阿部が示した寛容な言葉の見事な言質を取っての作戦であろう。
○原口氏の文章から引くと、「琉仏修好条約は結ばれたものの、島津斉彬には焦りがあった。米国の駐日公使ハリスが幕府に通商条約の締結を求めたからである。日本が開港され、貿易が始まると幕府は関税収入の独占をはかるために直轄地にしか開港地を設定しないであろう。従来、薩摩が確保してきた琉球貿易の利益は大きな打撃を被るにちがいない。斉彬の頭の中に幕府の先手を打つことがひらめいた。」
○安政5年2月に始められた仏人宣教師との軍艦購入交渉は、数カ月間にわたり難航した(その間に薩摩の意向に従わず反対した座喜味三司官は解任されたりしている)が、7月には契約書も作成された。代金は18万5,000両、6年年賦で初年度6万両という内容であった
○8月2日には正式契約書がフューレの手に渡ったとある。
○7月16日、 肝心の島津斉彬が急逝してしまっていたのである。
○その3.牧志・恩河事件
薩摩の、と言うより島津斉彬の威光が消えると、琉球ではこれまで肩身の狭い思いをしていた摂政三司官と反薩摩派が、一気に巻き返しに打って出た。これを斉彬崩れという。軍艦購入に積極的に動いた玉川王子をはじめ、小禄三司官や恩河親方、牧志朝忠等は、薩摩に琉球の情報を流して利益をあげた国賊呼ばわりから、果ては玉川王子を擁立して尚泰王の廃摘を企てたとするクーデター説まで、その流言飛語は止まるところを知らなかった。この糺問(キュウモン)役の代表が、玉川王子の兄である伊江王子であった。
安政6年(1859年)2月23日、まず恩河朝恒の物奉行職が解任され、3月28日入獄させられる。暗示的なのは、事件発端の2月23日の3日前、つまり2月20日に、島津斉彬公薨去(コウキョ)に就き上下一般謹慎をする様に、という評定所の廻文が廻されていることである。
斉彬の死は前年の7月16日で、琉球国への正式な表文がもたらされたのが12月20日、そして廻文が2月20日で恩河親方の解任が2月23日、反斉彬派の地歩固めが着々と進み、用意万端整ってのすさまじい攻撃が始まったのが伺い知れる。新しい薩摩藩主久光の反応を見極めるには、十分な時間的余裕である。
○.安政の大獄にも並び称される、琉球史上初めて発生したこの疑獄事件は、その後も明白な決着を得ることもなく、いつしか巷間では「白党」対「黒党」の闘いと呼ばれたりもしている
○白党と黒党の意見対立がどうしても妥協点を見いだせず、その採決を尚泰王に求めたのである。18歳の国王に判断できる訳がなく、最初は強硬派の黒党である摂政に同意を示すが、これ以上の混乱は国益を損なうとして、王の生母へ直訴した白党の意見が勝り、3日後前言を取り消し穏便に終結せよとの断が下された。
しかし、時すでに遅く、恩河は衰弱が激しく獄中死していた。獄中にあること13ケ月、受けた拷問の数も10数回、ついに罪を認めることもなく、力尽きての病死であった。万延元年(1860年)3月13日とある