(離れ小屋に残された静江)
(印象批評/覚え書き)
ウチナーグチ台本を読んで予想したつらねの唱えがオペラのアリアのように響いた
クライマックスだ!
高音で小嶺和佳子は唱えきった。澄んだつらねが響くその離れ家の場面がこの演劇の頂点だったのだ。悲哀の極地が死出の旅立ちだった。「泊阿嘉」のあの辞世のつらねが脳裡をかすめた。愛の極地で唱えられた。
死出の旅路に唱えられる辞世の思いが朗誦される。その場面があっての今回のうちなーしばい「椎の川」だった。1000人収容の大ホールである。ホールの音声機能はどうなのだろう。普段舞台の前で見るが、全体を見渡す席を選んだ。顔の表情は詳しく読み取れなかったが、物語りの流れ、浮き沈みはきりりと入ってきたl。
産婆のツルおばーはどちらかというとマルムン的な笑いをもたらす役割で、国立劇場で上演した時はメリハリのいい役柄はごやかなめさんが演じた。
今回はその沖縄芝居の構造の中にあるマルムン的息抜きの部分が消されていた。戦争、死へと収斂していく構図があり、やがて蛍が飛ぶ終幕へ。あの世へ飛び立つ蛍(魂)を見守る家族の姿。どんな時でも、どんな状況でも人は生きていかねばならない。
一方で舞台に詩情が漂い、愛の賛歌になった。泊阿嘉が過った。現代沖縄芝居の登場は、すでに沖縄芝居実験劇場が1987年頃から大胆に大城立裕・幸喜良秀のユニットで繰り広げられた。今回の成果は彼らが必死に取り組んだパトスの実りだといえようか。
しかもキャスティングは一人も沖縄芝居のベテランはいない。中堅の舞踊家や役者がやってのけた。若い彼らの身体とウチナーグチで舞台に詩をもたらしたのである。新劇が新沖縄演劇として登場したモメントに立ち会ったのである。沖縄芝居役者の身体・演技が、継承されたというより、新たな一歩を踏み出したのである。
類型としてカチャーシーで閉じる幸喜の従来のパターンがしんみりと情感を残して幕がおりた。幕が下りる間合いに今回もっと観客サービスがあれがよかったと感じた。幕が速すぎるのである。情感が幕で断ち切られるような機械的な操作に見えた。幕は引かれるのではなく、さっと上から下りてくる。余情を断ち切る。幕の降ろし方にも情感が籠められなければならないのだと、感じさせた。幕が下りる必要があるのだろうか、とも感じた。
写実的に深みのある舞台美術だった。芝居幕もうまく取り入れた。音楽も現代音楽である。三線の音色が響き渡る風でもない。現代音楽(創作)に詩劇の装いである。
村の女たちのユンタクの場面はコミカルリリーフになりかつニンブチャーへの不安がかもしだされていった!若い、中堅所の舞踊家や劇団うないの役者も頑張った。
親子の愛情溢れる場面、椎の木に向き合う源太
敬愛する大城立裕先生!少年のような優しい笑みです!
続く:演技などについて、後ほど!