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(2013年、11月20日、琉球新報)
田場 裕規さんのこの古典芸能についての論を読んで、引き込まれるいい展開だと感じた。しかし、読みながら違和感を覚えていた。演者が無私の心で役柄を演じる、それはそれでいいと思う。舞台の上では舞台上の世界がすべてでおそらくその「場面」で精一杯役に徹して唱えるのだろう。個人的な欲(誰よりもよく見せたい。際立った役者でありたいなど)はその場では吹っ飛んでいるかもしれない。観衆はどうか?古典の世界に出向くという姿勢が無私であり、舞台の無私の演技と観衆の無私が一体化するという。古典芸能のお能でも歌舞伎でもわたしはその舞台を楽しみたいから能楽堂へ行き歌舞伎座にたまに足を向ける。「古典芸能」の一部として雰囲気を作る個を意識したことはない。舞台はあくまで観賞する対象であり、その舞台空間との一体感は作品の世界といっしょに場を共有している方々との無意識の共同性が生じる中で、舞台の物語の推移が深刻だと溜息をつき、笑える場面があるとにんまり笑うだろう。
谷茶の按司の名台詞を聞くと、戦前は「したいXXX按司」と野次がとんだようだ。息をつめて見つめる対象ではないと思う。舞台と一体感を持つとは情感の高まりを伴う。途中で拍手したくもなる。無私を強要されたくないと思う。古典芸能の空間は学びの場だと、確か狩俣恵一先生は書かれていたが、息苦しい思いがしてくる。学びの場であって娯楽空間である。儀礼儀式の組踊ではないはずだ。もともと歓待芸能である、酒肴を楽しみながら観劇したのである。その組踊を儀礼儀式的な古典芸能に推移させたい論調に読めた。んんん、そんなものですか?古典化とは息苦しく窮屈感を無私の精神で耐えて學ぶ空間とはー、そうではないはずだ。
≪古典芸能の精神を研ぎ澄ました世界≫をぜひ沖縄でも堪能≪観劇≫してみたいです。この糺しの場面は真喜志康忠氏が演じた場面が思い出されます。古典芸能の精神とは何だろうか?組踊=古典のどの時代の上演形態(経験)をその「研ぎ澄ました精神」と捉えるのだろうか?観客が呼応しえない空間=劇場(私語はご遠慮ください)でお能のように演じられる空間のことだろうか?息をつめて見つめながら聴き入る舞台=組踊=研ぎ澄ました世界、なのだろうか?この文面からは舞台のディテールまでは見えてはこない。「忠孝婦人」は近代沖縄でかなり人気があったのですよね。なぜ?拍手喝采の劇場光景が目に浮かびます。東京国立劇場では喝さいが起こっただろうか?谷茶の按司のあのわたしが好きな求愛の台詞に劇場が「ほどける」モメントがあっただろうか?
三つ目の無私として、企画者として科研プロジェクトを持ち出された。もちろん国の管理する金だから、利潤などありえない。すべて還元すべき資金である。しかしそこが全く無私かというと、そうではない。研究という名目だが、競争的資金という名目がそうではないことを示している。つまり研究報告書としてしっかりまとめ、論文として文字化される作業が義務付けられ、その成果が良ければ次の研究助成を得ることができる厳しい競争原理が科研研究には伴っている。田場さんのことばはそのまま表面をうのみにする限り、限りなく美しく見える。しかし美しい言葉には嘘があるかもしれない。無私の二文字は美しい。私の心がないこと、自我を超越した無我の境地と一緒だろうか?おそらくその境地はモメントであれ、ありえることはありえるね。超自我の境地が誰にでもありえるようにー。ある刹那の無私、無我の境地のXXXXX-。
反論だが、演者の情熱がまずあり、役柄に徹するパトスがあり、観客の見たい、楽しみたい情熱があり、理解のパトスを強いられもする。企画者のいい上演をしたい、いい研究をして成果を残したいという情熱とまとめるパトスがそこにあるだけかもしれない。野心が逆にぎらぎらしている目もありえる。美しいことばの表象をそのまま鵜呑みにしないでおきましょうか。