(10月14日:琉球新報)
組踊役者がまず王府時代に存在したか。職業としての役者は存在しなかった。急ごしらえの外交御用達のための芸能が組織化され、王府ユカッチュの子息たちや唄三線に長けた者たちを招聘して、踊奉行を中心に前年から体制が整えられていったのではなかったのか。役者?小さな貧しい王府が賢明に外交儀礼として組み立てた饗宴のために、仕組まれた芸能があった。組踊を演じた者たちを役者と称することができるか、芸能者と称したらいいのか。役者とは俳優であり、劇を演じる人であり、職業である。劇を演じた人として、組踊を演じたのは役者であったと称することができても、職業ではなかった。急ごしらえの一時的な歓待芸能の演技者である。その芸が職能として、生活の糊塗を得るということになったのか?ありえなかった琉球王府である。と想定するのだが、間違っていたら史料を基に指摘してほしい。
近代の組踊は王府の庇護を離れて馴染みのあった遊郭の座敷やその界隈で王府時代の芸を切り売りしたことから始まっている。その後飽きられた組踊にとって代わったのが雑踊りであり、壮士芝居や歌舞伎もどきの芝居が始まっていく。昭和39年や40年にいきなり組踊が何組も上演されていくが、伊波普猷が東京大学を卒業して島に戻った時期と呼応しているのは興味深い。詳細は触れないが、その後芝居、特に歌劇や史劇が盛んになっていき、組踊は素通りされている。面白くないということで~。明治初期の組踊上演に関しては『沖縄芝居とその周辺』の著者大野道雄さんがいい論文をすでに発表している。組踊が沖縄を訪問する著名人のために上演された事など、紙面は記録を残している。
さて戦後だが、『花売りの縁』の石川での上演に関しては、多くの戦争を生き延びた人々の涙腺が溢れたことがよく取り上がられる。その後村々での民俗芸能の中で組踊は継承されていく。芝居は組踊を離れていく。沖縄芝居も50年代半ばがピークで60年代になると、日本復運動が始まり、徐々にTVなどの登場も伴い衰微していく。そして1972年の復帰がやってきた。その前から戦前の沖縄芝居の名優たちは琉球舞踊研究所を打ち立て、芝居を離れていく。舞踊を主体に組踊が真境名由康さんを中心に唱えや技芸の継承や公演がなされていくが、耕太さんが書いているようにほそぼそとだったことはそのとおりだと言える。しかし、「研究所の上演形態に変わり、琉球芸能を学んだ者が立ち方になる」には違和感がある。復帰に何が起こったか。なんと組踊がいきなり国指定無形文化財に指定されたのである。
そこから利権が動いていったのが沖縄芸能界の歴史だと考えている。あくまで真喜志康忠さんからうかがったお話だが~。聞き取りしたテープは残っている。当時の沖縄芸能のドンの人物が、あきらかに沖縄芝居役者を組踊継承の仕組みから除外したという事は表には出ていない。その人物は先取りして自らの芸能研究所に身内を集め、組踊の継承に尽力している。
さて不思議なのは沖縄芝居役者で唯一、組踊無形文化財の保持者として二次認定されたのは、真喜志康忠だけである。それも県の候補リストになく、矢野輝雄さんの指摘でかろうじて認定されたという経緯をうかがった。なぜ?第二次指定候補を誰が中心になってやったかで詳細は推定できるが~。初期の保持者は5人。それぞれ舞踊研究所を持っていた方々。真境名由康、宮城能造、親泊興照、島袋光裕、そして金武良章さんである。
さて現在の組踊の状況は以下のサイトでわかる。2010年、ユネスコに重要無形文化財として認知されることになった伝統組踊保存会は勢いがある。
http://kumiodori.jp/aboutus/index.html 一般社団法人伝統組踊保存会
2013年4月現在、琉球古典音楽の島袋正雄(しまぶくろまさお)、照喜名朝一(てるきなちょういち)をはじめ、城間德太郎(しろまとくたろう)、宮城能鳳(みやぎのうほう)、西江喜春(にしえきしゅん)、比嘉總(ひがさとし)が、組踊の音楽や舞踊の優れた技芸を伝える重要無形文化財保持者[人間国宝]として活躍している。人間国宝のお墨付きで沖縄芸能界を牽引している。つまり組踊保持者になりかつ人間国宝になるのが目標の頂点になっている沖縄芸能界だということがわかる。そしてそれに国指定無形文化財の「琉球舞踊保存会」が続いているようだ。一般庶民に人気のある沖縄芝居は国のお墨付きはまだ得ていない。県指定無形文化財から国指定無形文化財にアウフヘーベンできるか?その必要があるか?ないのか?まぁ庶民芸の福建州の伝統芸能がユネスコ入りしているので、可能性はないとは言えないね。
私見だが、組踊役者の身体ということで、何か特別な身体性が昨今耕太さんや他の研究者が論を書いているが、伝統組踊保存会の伝承者は柔軟に沖縄芝居(史劇や歌劇、時代劇、喜劇)などにも出演し、おおいに観客に受けている。キャパの少ない沖縄で、組踊だけでは面白みがない。
初代保持者の5人の方々は沖縄芝居の名役者でもあった。彼らがモデル(原像)になりえるのではないか。真喜志康忠は100年に1人の沖縄を代表する名優だ。現代の若い、あるいは中堅の立役は役者としての技量を芝居を演じることによってよりその芸を深めたらいいと思う。
組踊役者の身体?組踊に特化した方々の芸は面白みがないというのが率直な感想だ。(2276字)
組踊役者がまず王府時代に存在したか。職業としての役者は存在しなかった。急ごしらえの外交御用達のための芸能が組織化され、王府ユカッチュの子息たちや唄三線に長けた者たちを招聘して、踊奉行を中心に前年から体制が整えられていったのではなかったのか。役者?小さな貧しい王府が賢明に外交儀礼として組み立てた饗宴のために、仕組まれた芸能があった。組踊を演じた者たちを役者と称することができるか、芸能者と称したらいいのか。役者とは俳優であり、劇を演じる人であり、職業である。劇を演じた人として、組踊を演じたのは役者であったと称することができても、職業ではなかった。急ごしらえの一時的な歓待芸能の演技者である。その芸が職能として、生活の糊塗を得るということになったのか?ありえなかった琉球王府である。と想定するのだが、間違っていたら史料を基に指摘してほしい。
近代の組踊は王府の庇護を離れて馴染みのあった遊郭の座敷やその界隈で王府時代の芸を切り売りしたことから始まっている。その後飽きられた組踊にとって代わったのが雑踊りであり、壮士芝居や歌舞伎もどきの芝居が始まっていく。昭和39年や40年にいきなり組踊が何組も上演されていくが、伊波普猷が東京大学を卒業して島に戻った時期と呼応しているのは興味深い。詳細は触れないが、その後芝居、特に歌劇や史劇が盛んになっていき、組踊は素通りされている。面白くないということで~。明治初期の組踊上演に関しては『沖縄芝居とその周辺』の著者大野道雄さんがいい論文をすでに発表している。組踊が沖縄を訪問する著名人のために上演された事など、紙面は記録を残している。
さて戦後だが、『花売りの縁』の石川での上演に関しては、多くの戦争を生き延びた人々の涙腺が溢れたことがよく取り上がられる。その後村々での民俗芸能の中で組踊は継承されていく。芝居は組踊を離れていく。沖縄芝居も50年代半ばがピークで60年代になると、日本復運動が始まり、徐々にTVなどの登場も伴い衰微していく。そして1972年の復帰がやってきた。その前から戦前の沖縄芝居の名優たちは琉球舞踊研究所を打ち立て、芝居を離れていく。舞踊を主体に組踊が真境名由康さんを中心に唱えや技芸の継承や公演がなされていくが、耕太さんが書いているようにほそぼそとだったことはそのとおりだと言える。しかし、「研究所の上演形態に変わり、琉球芸能を学んだ者が立ち方になる」には違和感がある。復帰に何が起こったか。なんと組踊がいきなり国指定無形文化財に指定されたのである。
そこから利権が動いていったのが沖縄芸能界の歴史だと考えている。あくまで真喜志康忠さんからうかがったお話だが~。聞き取りしたテープは残っている。当時の沖縄芸能のドンの人物が、あきらかに沖縄芝居役者を組踊継承の仕組みから除外したという事は表には出ていない。その人物は先取りして自らの芸能研究所に身内を集め、組踊の継承に尽力している。
さて不思議なのは沖縄芝居役者で唯一、組踊無形文化財の保持者として二次認定されたのは、真喜志康忠だけである。それも県の候補リストになく、矢野輝雄さんの指摘でかろうじて認定されたという経緯をうかがった。なぜ?第二次指定候補を誰が中心になってやったかで詳細は推定できるが~。初期の保持者は5人。それぞれ舞踊研究所を持っていた方々。真境名由康、宮城能造、親泊興照、島袋光裕、そして金武良章さんである。
さて現在の組踊の状況は以下のサイトでわかる。2010年、ユネスコに重要無形文化財として認知されることになった伝統組踊保存会は勢いがある。
http://kumiodori.jp/aboutus/index.html 一般社団法人伝統組踊保存会
2013年4月現在、琉球古典音楽の島袋正雄(しまぶくろまさお)、照喜名朝一(てるきなちょういち)をはじめ、城間德太郎(しろまとくたろう)、宮城能鳳(みやぎのうほう)、西江喜春(にしえきしゅん)、比嘉總(ひがさとし)が、組踊の音楽や舞踊の優れた技芸を伝える重要無形文化財保持者[人間国宝]として活躍している。人間国宝のお墨付きで沖縄芸能界を牽引している。つまり組踊保持者になりかつ人間国宝になるのが目標の頂点になっている沖縄芸能界だということがわかる。そしてそれに国指定無形文化財の「琉球舞踊保存会」が続いているようだ。一般庶民に人気のある沖縄芝居は国のお墨付きはまだ得ていない。県指定無形文化財から国指定無形文化財にアウフヘーベンできるか?その必要があるか?ないのか?まぁ庶民芸の福建州の伝統芸能がユネスコ入りしているので、可能性はないとは言えないね。
私見だが、組踊役者の身体ということで、何か特別な身体性が昨今耕太さんや他の研究者が論を書いているが、伝統組踊保存会の伝承者は柔軟に沖縄芝居(史劇や歌劇、時代劇、喜劇)などにも出演し、おおいに観客に受けている。キャパの少ない沖縄で、組踊だけでは面白みがない。
初代保持者の5人の方々は沖縄芝居の名役者でもあった。彼らがモデル(原像)になりえるのではないか。真喜志康忠は100年に1人の沖縄を代表する名優だ。現代の若い、あるいは中堅の立役は役者としての技量を芝居を演じることによってよりその芸を深めたらいいと思う。
組踊役者の身体?組踊に特化した方々の芸は面白みがないというのが率直な感想だ。(2276字)