最近、様式や身体論が沖縄でも飛び交っている。植民地的身体性もあるのだろうか?おのずの表象!河竹賞の渡辺保さんと奨励賞の笹山敬輔さんの受賞スピーチは学士会館でお聞きした。日本演劇学会が河竹黙阿弥にちなんで河竹賞を授与している。この間の優れた東西の演劇研究書がずらりと並んで...
1820年代に琉球を訪れたバジルホールが琉球男児の気骨を試した体験がイギリスの新聞でエッセイとして記されている。The Morning Post,その中でとてもフェミナンな、つまりとても卑屈で男とは思えない琉球男児をeffeminate creaturesと記している。時代が社会がそこに住む人間の感性を身体をもまた縛るのである。制度が政治が否定しようが是認しようが、こびりついてくる時勢の層・相があるのだろう。そして、その露わな姿はどんな様相を示しているのだろうか?脳裏に刻まれているのは5人の沖縄出身国会議員の首うなだれた惨めな姿である。石破幹事長の大きな身体の横で並んで座っていた自民党国会議員の姿は、無様に見えた。島尻さんなどは確信犯的に毅然と見えたが、彼女は沖縄出身ではなかった。そしてその後の彼らはまた別の身体性(制)を見せている。演じていると言ってもいいのかもしれないが、パーティー会場で、意気揚々と支持者に答えたりしている。
制度内の特権者として振る舞っている。しかし、仮病を演じたような去年の暮の辺野古埋め立て承認以来の知事の貌は醜い=戦争を引き寄せる悪魔か魔女のような醜さである。組長でいい顔の男たちがあまりいない、という事実にも驚くが、澄んだいい顔(表情)を見たいものだ。お金(予算)の奪い合いが根にあるのだろうか?お金という現代の血の潮流にがっぽり首までつかっている首脳陣の貌、顔は、決して美しくはない。組織の舵を取る者たち、民族的特性もあるのだろうが、どこでも毅然とした精神の輝きを感じさせる身体性がある。委縮することなく、世界に目を向けるまっすぐな眼差しが少なくなった昨今か?道行く若者たちは皆スマホ(携帯)を携えそれを見つめている。文字化されたデーター、映像化され動画になったデータやゲームなども含め、スマホアプリは世界を虜にしているようだ。ここからどこへ?新たな身体性は、スマホと指!めくるめく変化の前に立ちすくむ間もなく流れていく。急速に進む時代相があり、取り残された漂う物、者たち、まっすぐ疑問をぶっつける感性ではなく、少し上から下から斜めに見据える感性が、すこしずらした感性や身体性が今を見る術かもしれない。間が置けないところで間をおいてみる。←まず間合いをとってみよう。そこから見えてくるものがあるやもしれない。
文明の利器が世界のどこでも同じように受容されていく現在、世界の身体性もまた類似してくるのかもしれない。差異は歴史と伝統、宗教のわずかな差異になっていくのだろうか?と飛躍していく。個人の履歴の表記の違いに今振り回されている。どれが本当なのか、個人の年譜があいまいなのだ。本人の証言も微妙に異なる。やれやれ!死者には質問できない。