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沖縄タイムスの【真喜志康忠氏】をたたえる記事はいいですね!(転載)+通夜で思った事!

2011-12-18 12:19:48 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
(沖縄やグアムの脱植民地を目指す集い:琉球諸語/沖縄語ウチナーグチの復興を!)

以下はネットで紹介された今朝の沖縄タイムス記事です!
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「最後のスター役者が消えた」「組踊の精神的支柱を失った」―。沖縄演劇界の重鎮だった真喜志康忠さん死去のニュースに、芸能や文化関係者から戦後の芝居文化を牽(けん)引した「巨星」の死を悼む声が上がった。

 「伊江島ハンドー小」の船頭主役など、琉球歌劇での名演技が人気だった真喜志さん。真喜志さんが座長だった「ときわ座」に在籍した県指定無形文化財「琉球歌劇」保存会の森田豊一会長は「戦前のウチナー芝居を引き継ぎ、進化させたのが康忠先生。その功績は計り知れない。まだまだ元気でいてほしかった」と声を落とした。

 国の重要無形文化財「組踊」の保持者でもあった真喜志さん。晩年は組踊の舞台に上がることはなかったが、組踊の保存と継承をずっと気に掛けていたという。伝統組踊保存会の島袋光晴会長は「会の支柱を失った。組踊だけでなく沖縄芝居や舞踊まで幅広い芸事に精通する名優で、間の取り方や所作はまねできないほどだった」と偉大な先輩が人生の舞台から去った寂しさを隠しきれない様子。

 芥川賞作家の大城立裕さんは「私の多くの作品に出演してもらった。名人と呼ばれるようになっても稽古には厳しく、真摯(しんし)な態度で舞台に向き合うまじめな人。芝居のために生きているような人だった」と振り返った。

 「沖縄の演劇改良に最後まで努力と情熱を注いだ人だった。康忠さんの役者魂や、舞台に掛けた思いを若手に伝えなくては」と話すのは真喜志さん主役の演劇を多く手掛けた演出家の幸喜良秀さん。「舞台や文章に残された康忠さんの仕事を再評価する必要がある」と強調した。

ファンの支え感謝する遺族

 那覇市曙の真喜志康忠さんの自宅では17日、親族らが集まり、しめやかに通夜が営まれた。訃報を聞き付けた親族や芸能関係者らが夕方以降、絶え間なく訪れ、穏やかな表情を浮かべる真喜志さんの遺影に向かい、線香を手向けて、手を合わせた。

 四男の治さん(51)は「多くのファンに支えられ、とても幸せだったと思う。だからみなさんに感謝したい」と話し、親族はみな真喜志さんを愛したファンへの感謝を口にしたという。

 弟子には時に厳しく、しかし優しかったという真喜志さん。ウチナーグチを使って家族を冗談で笑わすユーモアも。伊波普猷の本を読みあさるなど勉強熱心な一面もあったそうだ。

 治さんは「古き良き時代の沖縄に支えられて、輝くことができた人です」と頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。

おじぃがくれたメモ 宝箱に

 「おじぃ、よかったねぇ。幸せだったね」東京で訃報を聞いた真喜志さんの孫で歌手のCocco(こっこ)さんも通夜に駆け付けた。Coccoさんにとっても祖父はあこがれの存在だった。

 劇団員の分もおにぎりを握った祖母とよく劇場に行った。スポットライトを浴びる真喜志さんが「手が届かなくなる」と思うほどまぶしかった。簡単に人を喜ばせる祖父がうらやましくもあり、誇らしかった。

 高校卒業後に「上京」を告げると、餞別(せんべつ)が入った封筒とメモをくれた。「低く暮らし、高く思う おじぃ」。メモと封筒は小学生のころから大切にする宝箱に入れ、通夜にも持参した。

 外国の映画祭で高い評価を受けているCoccoさん。「じぃちゃんの孫として、トロフィーや賞状を見せたかったな」時折笑顔を浮かべ、目にいっぱいの涙をためていた。
(『沖縄芝居と共に』の中から撮影した写真:浅地紺地、真喜志康忠&玉城千枝)
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昨夜、すぐ通夜の席に駆けつければよかったのだが、沖縄大で開催された「脱植民地のシンポジウムを午後4時から5時まで拝聴し、その後8時過ぎまで図書館にこもって資料を読みこんでいて通夜に参加できたのは9時過ぎだった。幸喜良秀さんや玉城秀子さん、二代目玉城盛義が見えていた。しばらく11時過ぎまでユンタクしながらご家族といっしょに過して戻った。【草枕】は恐ろしい小説だと話された息子さんのお話に耳を傾けていた。氏はエンジニアだが演劇論・文学論が鋭いと感じていた。医学部の5年生のお嬢さんは以前英語講読を教えたことがあり、優秀な感性・知性に康忠氏を感じさせたものだった。真喜志家の方々はやはり「すぐりむんのおおい」家系なのだと、感じていた。大きな目をしたCoccoさんも独特なオーラを放ってそこに坐していた。ハ重子さんは、「みんながいろいろな葛藤があってもこんなに父親のことを慕って、互いに父と息子、母と娘で闘いながら生きてきたのだけど、このように皆が仲良く語りあうことはいいね」と、やはり鋭いことをおっしゃった。凄い家族だと思う。

ハ重子さんの聡明さは確かに際立っていると言えよう。あの康忠氏がいてこの奥さんがいて、先妻との間にお生まれになった御長男や御長女も含め、真喜志家は沖縄の名家族なんですね。劇団「乙姫」の看板女優(男役)の上間初枝さんは芝居の同士のように康忠先生に寄り添っておられた。真喜志きさ子さんの特異な才能もまたお二人のお嬢さんゆえのきらめきがあったのだ。

真喜志康忠を論じるという事はこれらのすべてと向きあう事になるのだろうか?優秀なお孫さんやお子さん方が「真喜志康忠を語る」で、是非ご本にまとめてほしいものである。私はあくまで「ますらお的」な真喜志康忠の芸と作品世界について書いてみたい。しかし氏は二枚目も三枚目も演じのけ、まさに名優の名にふさわしい役者だった。

康忠先生には、「沖縄方言ではなく独立言語の沖縄語になったのですよ」と、お話したかった。方言ではなく言語として!ウチナーグチ万歳です!ウチナー芝居万歳ですよ、と。蔑まれた方言ではなく誇りある沖縄語(ウチナーグチ)として舞台に立って欲しかったです。それがとても残念です。康忠先生の喜ぶ顔を舞台で見たかったです!


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