以下は「国立劇場ステージガイド『華風』2011年5月号」に書いたエッセイである。来る5月28日・29日、大劇場で上演される『多幸山』をぜひ多くのみなさんにご覧になっていただきたいためにUPするのだが、それはこのガイドブックの一部でしかない。原稿4000字ほどである。他、沖縄芝居役者ならではの琉球舞踊も前座で披露される。その解説も今回初めて書かせていただいた。
他には「国立劇場おきなわ」が初めて挑戦する「御冠船踊の世界」の復元上演として組踊「忠臣身替之巻き」が来る5月15日には上演される。そちらも見ごたえがあるに違いない。何しろ戌の御冠船(1838年)の舞台が再現されるのである。それが、劇場の内部で試行されるということが、どうなのか、気にもなるが、本来なら、外で三間四方の舞台を設営してなされたらもっとユニークではないか、と思うのだが、この劇場の設計からして無理があるのかもしれない。今回どのように舞台が構成されるか、興味深い。張り出し舞台とその背後のステージに変動があるのだろう。観客は張り出し舞台を三方から見るという形になると思えるのだが、主なゲストは前の席に坐した国王や冊封使ならば、現在の劇場でいいのかもしれないが、いつか、外で風がそよぐところで見たいものだ。
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画期的な沖縄芝居『多幸山』
はじめに
組踊や沖縄芝居の中には琉球王府時代の地名がわりとよく出てくる。当時の地理が偲ばれるのだが、読谷から恩納村の境界に位置する多幸山もその一つである。その多幸山には山賊(フェーレー)が出ると人々は怖れていたようだ。本当にフェーレーがいたのだろうか?
民俗学者の仲松弥秀は『沖縄大百科事典』の中で、「多幸山は中頭の喜名番所から山原に抜ける国頭街道の一大難所だった。当時、シイ、カシ、リュウキュウマツがうっそうと茂り、<石くびり>と呼ばれる場所に山賊(フェーレー)が出没したという」と紹介している。多幸山が難所だったことは、例えば組踊の「姉妹敵討」の中でも姉妹の姉亀松の「喜名の番所超えて多幸山、なれぬ山道や歩であゆまれぬ」という台詞からも伺える。
さてフェーレーだが、山賊とか追いはぎの事で、琉球の史書『球陽』の中に「尚貞王代(一六六九~一七○九)に大飢饉があり、盗賊が各地に起こった」との記録がある、と仲松弥秀は同大百科事典のフェーレーの項目で紹介している。多幸山のフェーレーもその時代の山賊であったかもしれない、ということである。そういえば玉城朝薫の組踊「女物狂」は一七一九年の創作だとされるが、その時代以前に子供を盗んで売り買いする人間がいたのである。また士族層の家族でも貧困ゆえに落ち穂拾いなどをして世過ぎしていたことが表象としての作品「孝行の巻」から垣間見える。まして貧困ゆえに少女たちが辻遊郭(一六七二年、摂政・羽地朝秀〈一六一七―一六七六〉によって設立したとされる)に売られ、少年たちが糸満や寺社に売られた歴史の背景も見え隠れする。そうした時代相の中に「多幸山」を置いてみたら、リアリティーがありすぎるようだ。つまり首里王府時代に多幸山はフェーレー所として怖れられていたと見なすに十分な史的・地理的背景があるのである。
ところで、この「多幸山」の作者・真喜志康忠( 大正一二年、那覇生まれ)は、昨今ではシンガーソングライター Coccoの祖父として若者にも知られているが、戦後沖縄を代表する名優である。 平成二十二年ユネスコの無形文化遺産に登録された国指定重要無形文化財「組踊」保持者であり、沖縄県指定無形文化財「琉球歌劇」保持者である。九歳にして「珊瑚座」に役者見習いとして入座し、戦前の沖縄芝居の熟成期に「珊瑚座」や「真楽座」の座員として過ごした経験を持つ。戦前から名優の誉高い玉城盛重、渡嘉敷守良、真境名由康、親泊興照、宮城能造、伊良波尹吉、島袋光裕、玉城盛義、平安山英太郎の芸を身近に観賞し、共に舞台に立つ機会を得た。敗戦後三年に渡るシベリアでの拘留から帰沖後、一九四九年に若干二十六歳で「ときわ座」を旗揚げ、座長として沖縄本島、離島をくまなく巡業した。一九七○年に解散するまでの二十一年間、戦後沖縄芝居を常に先導する役割を果たしてきた。「多幸山」は、「くちなしの花」「首里子ユンタ」「てんさぐの花」「復員者の土産」「落城」(シェイクスピア「マクベス」の翻案)と並ぶ、氏が生み出した戦後「沖縄芝居」の傑作である。著書『沖縄芝居五○年』(新報出版、一九八三年)と『沖縄芝居と共に』(新報出版、二○○二年)を紐解くと氏の沖縄芝居に対する情熱がひしひしと迫ってくる。
沖縄芝居「多幸山」の誕生
「多幸山」は当初「田幸山」の題で、「ときわ座」座長・真喜志康忠が翻案、演出かつ主演し、第一回琉球新報演劇コンクール(一九五五年ニ月一八日から二○日まで那覇劇場で開催された)で入選した作品である。乙姫劇団の「王女御嶽」、大伸座の「丘の一本松」と共に高い評価を受けた。コンクールは他に「新富座」「新生座」「振興劇団」「ともえ座」「ゆたか座」「眞楽座」「みつわ座」が参加した。新聞社主催によるはじめての演劇コンクールで、各劇団がそろって参加し、その力量を披露したことが当時の新聞から伺われる。
当時、演劇コンクール審査員の一人であった山里永吉は、講評で「ときわ座」の舞台に対して多く紙面を取り、「時代劇(田幸山)の脚本は、これまた浪花節の焼き直しみたいな筋であるが、ただ群衆の動きに気を配った演出は出色であった」また「元来、脚色に無理があり、その脚本をあれだけ無難に見せたのは、やはり真喜志康忠の芸の力であろう」(琉球新報、一九五五年二月二四日)と評している。つまり、山里の脚本に対する評価は低いが、演出と真喜志康忠の演技を高く買っている。当時の舞台を振り返り、真喜志は「従来の芝居口調をあらため、台詞にあまり抑揚をつけず、リアルな演技を指導し、扮装もそれらしいもので、メーキャップも白塗りをやめさせ、村人たちの集団演技に気を配り、殺しの場面でのどかな哀愁をおびた宮古ナークニーを使った」(『青い海』一九九八年五月号)と書き留めている。その後、殺しの場面の曲はカチャーシー曲に替わり、明るい野遊びの歓喜の中で、殺人も起こりえる日常の明暗、不条理を浮き彫りにした。一九九七年三月、真喜志は「アンバランスのバランスをねらい、成功した」と私のインタビューに答えた。
小説「敵討たれに」
山里永吉に「浪花節の焼き直し」と評された「多幸山」のタネ本は長谷川伸の短編小説「敵討たれに」(大正一五年「大衆文芸」一月号)である。その物語は次の通りである。
寛政八年三月、奥州東盤井郡釘子村の百姓庄右衛門三九歳は、伊勢参りの途中、帰経の原で酒飲みの浪人の追剥ぎに襲われ、家宝の道中さしもろともに丸裸にされてしまう。行き場もなく泣いて暗闇で消沈しているところへ足音が聞こえ、一本の藁にもすがる思いで助けを求める。
「お願いでござります、お助けくださいませ」
「あーッ、ええびっくりさせおる、なんだわれは丸裸じゃな」
「はい、追剥ぎにあいましてこの体、どうぞお願いもうします」
しかし、男は庄右衛門を睨みつけて、「追剥ぎにあいました、だと。なんの、われこそ追剥ぎであろう、悪者は面で知れる」とまたもや酒に酔っていた男は逆に丸裸の庄右衛門を追剥ぎ呼ばわりし、平手打ちをしたのである。はじめから敵意を見せた酔漢の男に激怒した庄右衛門は、争っているうちに誤って男を殺してしまう。
庄右衛門は人を殺した恐ろしさに身をすくめる思いの中で男の財布から一両を盗み、近くに捨てられていた自らの着物を見つけ、陸奥の村に戻った。その後二十三年間、村では徳望並びなき人物として敬愛され、長者になった。しかし、庄右衛門は豊かになっても幸福ではなかった。旧悪が常にうずいていたのである。そしてついに六二歳にして過去の罪を償う決意をする。「善人面をして安楽な往生を遂げたら人間ではない」との思いで、共の者を途中で撒いて帰経の原に立った。殺した男の身元を捜し当て罪の告白をし、仇をうたれようというわけである。捜し当てた男の家はちょうど二十三年忌の法事の最中で、和尚も同席していた。和尚は反対したのだが、翌日河原で親類縁者に囲まれ、殺された男の息子弥五郎が、叔父、桜弥次郎の秘蔵の脇差で仇を討つことになった。庄右衛門は合掌して端坐するが、抜刀した弥五郎の刀を見て、驚く。それは二十三年前、帰経の原で追剥ぎに奪い取られた紛れもない庄右衛門の刀だった。
過去の闇が表に出る。弥五郎の叔父は凶悪な男で、追剥ぎ、盗人の科で刑場で首を切られ、その臓品の一つがその脇差の刀だったのである。弥五郎は、家の中に逃げ込んだ。親類縁者は集って庄右衛門を厚く遇し、語った。
「弟の弥次郎がこなたを打ち倒し身ぐるみ盗んだ、と、兄の弥兵衛がその因果の巡り合わせでこなたに蹴られ死んだというのも、弥次郎の悪の報いです。それに、これは内々のことですが、弥兵衛は酒乱で他人によく難儀をかけた困り者でしたよ」と。庄右衛門の罪悪は帳消しになり、明るい気持ちで故郷に戻った三ヶ月目に村人に哀惜されつつ没する。
以上が小説「敵討たれに」の粗筋である。あえて台詞の部分を引用したのは「多幸山」と重なる部分だからである。小説の終りに長谷川伸は、庄右衛門の死が早目にきたことを、「人間にとって苦がなくなるという事は滅への抜け穴らしい」と結んでいる。
沖縄芝居「多幸山」の特性
「多幸山」は、小説「敵討たれに」を翻案した沖縄芝居だが、両者を比較してみると、いかに真喜志康忠が戯作者として優れていたかが分かる。山里永吉の批評を超えるものが、戯曲構造の中に秘められているのである。というのは、「多幸山」は、真実の謎解きの構造になっており、主人公の行動(行為)の目的や動機が明快で、筋の逆転と真実の発見(認知とアイデンティティーの確認)、パトス(受苦)が鮮やかに表出され、また多くのアイロニー(皮肉)がちりばめられている。悲劇ではないが、世界的名作として追随を許さないギリシャ古典劇『オイディプス王』を彷彿させる。なぜなら「多幸山」は、観客がギリシャ劇のコロス(群衆=市民)と同様、常に舞台の成り行きの目撃者であり、証人であるという構造の中で展開される。
まず真喜志は、小説の筋と道中差しの刀のシンボルを巧みに使い、主人公を固有名詞のない「旅人」として設定している。また実際に追剥ぎに出会ったのが浪人弥次郎一人だけだった小説に対し、兄弟二人のフェーレーを登場させ、劇的な効果を与えている。小説では誤って殺されたのは酒癖の悪い兄だが、劇の方では同じ追剥ぎでもより悪どい弟の方が殺されることになり、兄の大主は生存し、終幕の糺の場面で事の真相を証言する重要な役割を付与されている。特に脚本の秀逸さは主人公の性格描写に深みを与えている点にもある。旅人の独白の場面など、聴きごたえがあり、贖罪を晴らそうとする人間の苦悩があふれている。演劇ならではの感動が迫ってくる。しかも小説には登場しない旅人の息子や、殺された元フェーレーの妻も登場させ、事実から疎外されている人間の愚かさや悲哀も照射する。贖罪を求めて自ら討たれるためにやってきた旅人に対する村人の熱狂は、また魔女狩りにも似て集団のもつ無知と情緒の危うさ(狂気)も映し出すのである。
小説も劇も主人公がかつて誤って人を殺した贖罪を果たそうとする物語である。そして自ら仇討される(罪を償う)覚悟で身を投げ出した所、過去の真実が露わになる構造になっている。しかし、劇構造の中にある演劇空間ならではの逆転の構図は人間の深い諦観、悲しみ、愛情、皮肉が満ち溢れ、カタルシスが起こる仕掛けになっている。それはもう舞台を実際に見ないと味わえないものだと言えよう。
小説と演劇の比較検証と詳細についてご興味のある方はインターネット上で読める「沖縄芝居『多幸山』について」-構造主義的演劇批評のアプローチーに目を通していただきたい。それは一○年以上も前に私自身が書いた原稿用紙50枚ほどの論稿である。小説と脚本の類似や違い、また台詞のユニークさについても論じている。
最後に、今回「多幸山」を演出する幸喜良秀は、一九八三年、真喜志康忠芸歴五○周年記念公演で上演された同舞台を見て、「沖縄タイムス」に「多幸山が今日の私たちに強烈な印象を与えるのは、この作品の構成力の確かさに支えられた作者の思想と情念のもつ普遍性にあると思われる」と評している。「多幸山」は常に戦後沖縄の現実と格闘するかのように、「沖縄芝居」の新たな創造に挑戦してきた真喜志康忠の先駆的な作品である。