志情(しなさき)の海へ

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オムツ党走る←軽快な笑いの中の悲哀、マルチーズロック、新城カメーさん、良かったね!

2014-06-24 04:13:04 | Theatre Study(演劇批評)

          (国立劇場おきなわのこの舞台にびっくり、左側がエレベーターになっている!舞台美術デザイン=土屋茂昭)

伊波雅子さんが新沖縄文学賞を受賞した「オムツ党走る」がお芝居になった。ユーモアのある、沖縄オバアパワーがテーマで、小説を読んだ時点でお芝居にしたら面白いだろうと思っていたが、さすが、佐藤信率いる黒テントの経験の長い伊波さんは脚本に仕立てて、その舞台が実現した。制作に長けたACOの下山さんとのコラボである。それはまた2014キジムナー児童演劇国際フェスティバル(今年から残念ながらキジムナーの名称は割愛された)への参入でもある。

終演時のマルチーズロックのサービスに応える口笛と拍手がこの総合芸術=額縁・黒テントテイストの成功を告げている。これがそのまま沖縄版黒テントでもいいかもしれない。まさに総合芸術=台詞(物語)、音楽≪効果も含め≫、美術≪舞台デザイン、衣装、色彩イメージも含め≫、彫刻(舞台)、時間≪リズム≫、身体(声、ことば、所作、リズム)、ライブで堪能できた。ライブのマルチーズロックが冒頭から色即是空を強調するロックを奏でる。んんん、身体が全感性が溶けていく=のせられる雰囲気、目の前に繰り広げられるのは有料老人ホームガジュマルの内部光景である。伊波さんに脚本を読みたいとお願いしたら、原作とだいぶ違いますよとのお返事だった。小説からどう脚本化したかも関心をもっているが、今踏み込めない。

正直なところ、面白かった。物語の展開に酔い、何よりライブ音楽に酔った。沖縄のオバアが出たらそこには笑いがあり、生きるパワーがはじける。どんな哀しい物語もどんな重い物語もどこかはじけてしまう南国の「生きる」不思議なパワーがこぼれる、オバアたちの声音に耳を澄ますと、それぞれの声の温度差・違いがこぼれていた。そこで、昨今の伝統沖縄舞踊やエイサー・空手・組踊・芝居をアレンジしたような観光用・演出商品の儘ぐるしい「快適」な舞台表象とも若干異なるようで、同じ路線の可能性もある、この悲喜劇ドラマはパンチのきいた風刺の背後に、沖縄の歴史が見え隠れしてくる。否、仲井真知事による辺野古の埋め立て承認という、現実が、またオスプレイの爆音も劇場に木霊する沖縄である。埋め立て反対のシュプレヒコールも聞こえる。そしてマルチーズによる「沖縄よ返せ」である。瀬長亀次郎の名前も飛び出すのだ。←しかし政治的プロパガンダ芝居では決してない。それは極めて沖縄の日常の姿である。

ガジュマル有料老人ホームのオムツ党・党員のオバアたちと職員とのかかわり、エスケープの女王・絹子が物語のメインで、(つまり彼女は脱走・エスケープを試みてきた(いる人物との設定だ。)そして施設を紹介する医師・スタッフの当銘由亮がいる。ナビゲーション役を変化をつけて演じきった。スタッフ赤嶺とモニカ(20歳)を演じた泉さん、コンビのやよいさんは絹子の姪の役と、腰が曲がった老人ホームの老女などの役。スタッフには同じくお笑い出身のベンビーである。お笑いメンバーの登用はこの作品の面白さを引き出してくれたが、モニカと赤嶺さんのエレベーターを絡めた場面は増長の感じ。TOO MUCHのお笑い系のりがいいのか悪いのか、お笑いの地がですぎたら興醒めしてしまった。

今回一番のミスキャストに見えたのが、絹子役の田岡美也子である。ウチナーのおばあになりきれないその新劇女優の声音、身体表現は、そのオムツ党の中でも際立っていた。80代から90代のウチナーオバアの重さと軽さを彼女は演じきることができない。そこには大和のおばあの身体があった。絹子の役を沖縄芝居のベテラン女優が演じたら彼女が主人公の舞台になったかもしれないが、今回、中軸は具志堅ハルを演じた新城カメー(おばぁラッパーズ)になった!彼女のソロの歌も良かった。田中洋子もまたいい味を出していた。不満はお笑いのお姉さんたちやベンビーは地ののりに見えたが、地をどれだけ消せるかが彼らの演技力というところだろうが、面白いという点で良しとしようか!

田岡さんの差異が際立つほどに今回ウチナーの身体・感性が迫ってきた。学校の先生をしていたという絹子のプライド、失禁してオムツ党の仲間入りをするその展開、教え子を訪ねるその記憶と現在の境界にたたずむ姿に影を演じることのできない田岡さんだった。ただそれは無理もないことで、彼女はあくまで大和の女でありウチナーの感性・身体を短期間で演じることは難しいということに尽きるのかもしれない。絹子に沖縄の衣装をまとわない普通の日本のおばぁを演じさせることも不可能に思えた。≪←以前現代喜劇に出ているのを東京で一度見ただけの感想≫

少し浮いた絹子とすればそれで良かったのか、申し訳ないが、彼女の舞台の上での軽さに驚いた。軽々しくないウチナーのおばぁはハルになる。生きることに必死に生きているく来た〉のだ。彼女から誇りの影も感じなかった。例えばインテリ―女性の中でも、現在でも「わたしは首里士族の出身よ」のプライドを漂わせているのが例えば◎◎さんや▼▽さん的な品位ということになるのかもしれない。あるいはXX英子さんのような雰囲気の女性たちが老人ホームで意識が高く、こんなところにおれないと奮闘して逃げ出すという試みなどを想像すると、面白い。(ただ、深く思考する人は、最期の舞台でも沈着かもしれない。)全くの戯画化であれ、モデルにはなりえる。一方で米軍基地をさ迷い、酒におぼれたこともあるハルの人生、クリスチャンの彼女の「神のご加護を」のような台詞に、打たれるものがある。(ちょっと具体的な人名は問題だが、身体性というとき、戦前、そして戦後の沖縄の人間の身体性は変容してきたのである。たとえば組踊の身体性が最近表に出て、士族の身体ということばが見えるようになってきた。(女踊りなど美らジュリがモデルだと考えているが)首里王府時代の士族層(支配層)の身体所作の違いもあったのだろう。中・下級士族の身体所作はまた異なったのだろうか?そして百姓は?身に着ける服もまた差異化されていた身分社会琉球の身体はどうだったのだろう。そして戦前の国内植民地沖縄の人間の身体はどうだったのか?戦後は?アメリカ世は?といろいろと疑問が浮かんでくる。そして現在、仲井真知事の身体性が象徴するのは何だろう?)

(まったくまた余談だが、86歳で永眠した母は、品位のある女性だった。逝かなければならない死のステージを前に彼女が過ごしたひと時、痛みに襲われながらリハビリを続けていた姿が脳裏に浮かぶ。具志堅カメーさんは余命3か月の宣告を受けながら老人ホームで皆と和気あいあいと過ごしていた。退院は死出の旅でもあった。その車いすの上のカメーさんの姿は圧巻だったね。別れ、永遠の別れ、だからこそ人はもっと話したい者たちと話し、会いたい者たちに会った方がいいね。永遠の別れのステージが待っていることに変わりはないゆえにー。91歳、あっという間だったね、と足を少し上げて下ろす姿、それはその通りなのだ、と思える。XX歳はあっという間なのだと、母を見つめて常に感じさせられた。精一杯に老境に至って多様な書物を読んでいた彼女は、死に至るプロセスを必死に探り当てていたのだとも言える。←身体の機能が失われた時、病気とか老衰とか、不慮の事故とか、人は身体機能そのものに支配され、意識も潰えていく。意識や意志と関係なく、身体細胞が死んでいく。永遠の眠りがまっている。消えて無になる。記憶と物語が残される。記憶する者たちが消える時、それらの記憶は消えるのか?消えない実存や記憶とは?伊波さんの物語によって老人ホームの女性たちの一断面が残された。)

今大切に思う彼や彼女にあなたに、君に会いたい、話したい感情を大事にしたい、と思いつつ、時に流されているー。ーーー中学校の時に好きになった彼は今どうしているのだろうか?

さすが「焼肉ドラゴン」の作者・演出家の鄭義信さんの演出だね。鄭さんはうちなーぐちがよくわからなかったはずなのだが、そこは作者の伊波さんがうまくカバーしたのだろう。伊波さん初舞台おめでとうございます。何度でも上演してほしいです。音響効果のセンスも良かった舞台だ。緻密な動きが問われた舞台の面白さがはじけたのだった!

伊波雅子さんと鄭義信さんとの接点は若いころの≪黒テント≫だとお聞きした。お二人とも佐藤信さんの仲間だったのだ!←雅子さんのセンスの根拠かな?

わたしはすっかりマルチーズロックと新城カメー(おばぁラパーズ)にはまってしまった!←彼らのライブをじっくり味わいたい!


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