三内丸山遺跡は、縄文時代の前期中頃から中期(BC3,500~2,000)にかけての大規模な遺跡で、縄文の社会と文化の概念を一変させた。
この地に遺跡があることは江戸時代から知られ、あの管江真純の『栖家の山(すみかのやま)』に記録されている ― 寛政8(1796)年 ―
管江は謎の多い人物だが、自分の足で当時の日本を調査し、実に、貴重な事実を記録してくれた、これに対し、松尾芭蕉の紀行文は参考にならない、芭蕉は、いくつもの紀行をものにしているが、それは、彼の心象風景であり、我々の知りたい風俗・伝統・習慣ではない。
管江は諏訪大社の祭礼で、少年を捧げる不思議な儀式を記録していた、これは旧約聖書のアブラハムとイサクのエピソードに似ていることを指摘する研究者がいる。
かつて、大社の御頭祭では鹿の生首75頭を並べた、『信濃奇勝録』には、
「身の毛もよだちて恐ろし」
管江の報告とともに、列島の狩猟文化を伝える貴重な記録だろう。
管江に匹敵するのは。E・ケンペル、彼は江戸に向かう街道で、着飾った少年が客を待っているシーンを書き留めていた、恐らく、これを記録したものはないだろう。