7月10日のNHKテレビ・「かんさい熱視線」。
その番組を見るまで、≪駅の子≫と呼ばれた数多くの戦災孤児がいたことを、私は迂闊にも知らなかった。
終戦直前に生まれ、戦後の食糧難や物資不足の記憶を持つ私だが、田舎で育ったこともあって、あんな過酷な状況に置かれた、私
たちと同世代の子どもたちが数多くいたことは、私の知識と意識の中に皆目無かったのだ。
戦争末期、(主に)大都会を襲った空襲によって、戦争孤児となった子どもたちは、行くあてもなく彷徨い、最後に“駅”に辿りついた。
そこで、≪駅の子≫としての過酷な生活が始まる。
そんな戦争孤児の過酷な暮らしの実態を掘り起こして、それを戦後史の中にきちんと位置づけようという動きが、数年前から始まっ
た。
関西でその運動を始められた一人、立命館宇治中学の教師・本庄豊さん。
本庄さんは、当時の京都駅で≪駅の子≫としての暮らしを余儀なくされ、その後施設に収容された戦争孤児たちの足跡を追ってい
かれた。
その中で出会われた、戦災孤児の奥出廣司さん(宇治市在住)。
生まれてすぐ母親を亡くされていた奥出さんは、父親と二人、空襲で焼け出され、京都駅での生活を余儀なくされた。
しかし父親は間もなく、感染症に罹って亡くなられてしまう。
当時まだかすかに息のあった父親を、係員は、奥出さんから無理やり引き離し、まるで物のように死体置き場に投げ込んだという。
「そのときの無念さ・悲しみは、今でも忘れられない…。」と、彼は述懐される。
その後施設に収容され、最低限の食べ物を保証された奥出さんだが、親がいない淋しさは埋めることができず、何度も施設からの
脱走を試みられたそうだ。
(※下の写真は、ある施設での食事風景。
奥出さんは、生の芋しかもらえなかったと言われていたから、この写真のような恵まれた食事ではなかったと思われる。
でも、下の写真の子どもたちのあまりの健気な表情に引きつけられて、載せさせていただきました。)
奥出さんは言われる。 『戦争が終わってからが本当の戦いだった!』と。
その奥出さんに、宇治中学の本庄さんは、数年前から、その戦後体験を自分の学校の生徒たちに語ってほしいと依頼されていた。
しかし奥出さんは、今年になるまで、それを固辞し続けてこられた。
今年になってそれを引き受ける気持ちになられたのは、今の政治の動きに、強い危惧を感じられるからだそうだ。
そうして今年6月、立命館宇治中学で、彼の≪駅の子≫の体験が、初めて語られた。
奥出さんの体験談が、生徒たちの心に、強い衝撃と戦争に対する新たな認識をもたらしたのは、言うまでもなかった。
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「かんさい熱視線」が、もう一人の≪駅の子≫として取り上げていた方が、神戸市在住の内藤博一さん(82歳)。
内藤さんは、20年6月8日の神戸空襲で家を焼かれ、お母さんと二人で(妹は疎開中)、神戸・三宮駅での生活を余儀なくされた。
お母さんは、駅構内や駅の近くで、食べ物をあさって来ては、内藤さんに食べさせた。 自分は、何も食べずに‥。
程なく栄養失調で痩せ衰えたお母さんは、内藤さんの手を握り、妹のことを内藤さんに托して、息を引き取られた。
冷たくなっていく母親の手を握りしめて、彼は悲しみに暮れられた。
しかし、妹のためにも、生きていかなければならない!
「盗み・スリ・かっぱらい…人殺し以外の、ありとあらゆる悪いことは、全てやった。」
内藤さんは、温和な表情で、そう語られる。 「そうしなければ、生きていけなかった…。」と。
その後内藤さんは、疎開から帰ってきた妹さんと共に施設に引き取られ、学校に通うこともできるようになった。
しかしその学校が、内藤さんにとっては苦しみの場となった。
戦争孤児ということで、同級生から激しい差別を受けられたのだ。
その苦しみののち、社会に出られ、仕事も家庭も持たれて、今は穏やかな生活を過ごしておられる内藤さん。
しかし彼には、70年経った今でも、“足を踏み入れられない場所”があった。
それは、母が自分の手を握りながら冷たくなっていった、あの『三宮駅』だった。
(駅前の陸橋から、三宮駅を眺められる内藤さん)
いつもの温厚な表情をちょっと固くして、内藤さんは言われる。
『私は、戦争が終わって平和だなという気持ちは、まだ持っていません。』
私がよく行く、見慣れた三宮駅の風景…。
その駅に、今なお足を踏み入れることができない内藤さん。
その心の傷を思うとき、私は自分の脳天気さに対する忸怩とした思いとともに、平和への思いを更に強くした。
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