百翔

あした天気になぁれ!

環浄

2006-01-16 | Weblog
昨日、三次の葬儀に行った折に配られた
資料に「忌中」でなく「環浄」が適切とあり
調べたのが以下の文章です。
<浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)より
 抜粋させていただきました。>

環浄された(亡くなられた)方の一生を訪ね、法を聞き開いた心をもって
遺徳を偲ばせてもらうと、その御一生に如来としてのはたらきが
見い出されてきます。すると、そうしたいのちの往き先が
『冥土』と語られるような寂しく暗いところではなく、
『無量光明土』とも呼ばれ、真実の因縁果により、
いのちが共に集える場所として報われた『浄土』であると、
明らかに見させていただくことができるのです。

仏教というのは、お釈迦様の時代から現在に至るまで、
またインドでも中国でも日本でも、
全て生きている人々のために教えが説かれるのです。
死を目前にした人に経典を読む「臨終勤行」の作法はありますが、
死者のために読むお経などは存在しません。
あったらそれは「偽経」といって、覚りをもたらさない経典です。

また「追善供養」も、それは如来の真意ではなく、そこから本当の意味の供養、
つまり「相手を敬い尊敬する行為」に転じていくための手段として
用いられているだけです。
日本のいわゆる「葬式仏教」ということに関しての批判はよく聞きますし、
実際、葬式や法事でも、お経を棒読みしただけで終り、
法を伝えたり人々の悩みに応える努力をしない僧侶も多くいます。
コメント (2)
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